●西方見聞録其乃弐拾壱: 最終章 : ソウル・ダイエット!

October 13, 2005

我が人生史上最強といっても過言ではないモーレツな二日酔いによる壊滅的打撃と共に目覚めた9月26日、西半球で迎える最期の朝。最期の数日間お世話になった旧友Chrisに御礼を言ってナシオン駅まで歩いて行きメトロに乗りましたが、丁度出勤途中のパリジャンにもみくちゃにされるという凄まじいラッシュに巻き込まれてしまいました。しかも口の中は胃液で酸っぱく(Pardon食事中の貴兄!)嘔吐感は電車が揺れるごとに強まる一方。しかし朝の満員電車で吐いたりしたら一生自分を許せなくなる!と全身全霊を込めて耐え難きを耐え、忍び難きを忍びました。

シャルル・ド・ゴール空港に向かう途中、アコーディオン弾きが電車に乗って来て巴里情緒溢れるシャンソンの流麗なフレーズを奏でてはいるもののこちらはホント孤独な闘いの真っただ中、とてもお金をあげるどころの騒ぎでは御座いません!また皆様も御存知の通り仏蘭西が世界に誇っていたスペイシーでかっこいい新空港ターミナル(僕も数年前に行きましたがそのデザインの秀逸さにブッ飛んだ思ひ出あり)は昨年打ちっぱなしの天井が崩落して死者まででるという大惨事で閉鎖。その為か今ではターミナルに行くのにシャルル・ド・ゴール空港ターミナル駅からバスに乗り換えなければならないという始末。しかも空港に着いたらチェック・イン・カウンタ−には100メートルを優に超える大行列!正に一難去ってまた一難!

それでも何とか事なきをえて奇跡的に飛行機に搭乗。まずはクアラルンプールまで12時間という直行便なら成田に行ける長距離経由便の旅。このフライトも文字通り「拷問」。行きはストップ・オーバーの時間が幸か不幸か7時間もあったのでクアラルンプール市内観光を2、3時間する余裕がありましたが、今回は4時間という空港ラウンジで待つにはかったるいが片道30分強の市内まで足を運ぶにはリスキー過ぎるという実に微妙な長さ。とりあえずクアラルンプール空港のトランジットラウンジの免税店でお土産等を買って所定のサテライトまで行ってみるとななななななんと!成田行のフライトは3時間遅れ!最初から判っていれば前回の様にクアラルンプール市内まで足を延ばせたのに、と悔やみつつ結果的には12時間のフライトの後、空港にて7時間も足止めを食らう羽目に。

その後約7時間かけて成田空港に着陸したのは離着陸規制時間ギリギリの10時数分前(空港近辺の住民を考慮して成田空港は10時以降は発着陸出来ないのです。なのでもし飛行機があと数分遅れていたら…….ウーム、考えたくもありません)。しかもギリギリの時間だというのに日本の税関員は執拗に厳しく、結局スーツケースを開ける羽目に。今回色々な国の空港の税関を通りましたがこんなのは初めてです。しかも最終電車すら危うい時間だというのになんとも粋ぢゃなひこの計らい。この人間性の希薄さに怒りを通り越して悲しくなりました。お陰さまでJRは終電終了。リムジンバスで新宿に行こうと並んでいたら僕の前の人で「今晩の新宿行リムジンバスは全て満席となりましたぁぁ〜」という無情の一声。結局唯一の交通手段である京成の普通電車にて日暮里まで行く羽目に。ま、これが一番安いから良いんですけどネ。

そんな訳で7月11日未明に出発してから約2ヶ月半ぶりに帝都に戻った時、時計は真夜中の12時を回っておりました〜

結局巴里を出てから30時間以上経過していました……..

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この79日間で訪れたのは’美と快楽主義の仏蘭西’、’触ってヤケドな伊太利亜’、’異次元空間スロバキア’、’モナムールなオーストリア’、’マヌケ美が眩しいハンガリー’、’我が前世の故郷英国’、’妙に気が合った独逸’、’とりあえず阿蘭陀’、’浪漫紀行な白耳義’の欧州9ヶ国。中にはスロバキアや阿蘭陀のように駆け足で通り過ぎただけの場所もありましたが、今こうして自宅の机で各国の名前をタイプするだけで呼吸困難になりそうなくらい目眩を覚える土地ばかり也。

今回のGrand Tourが結果として僕に何をもたらしてくれたかというとこういう事なのです;

魂のダイエット - 3ヶ月で魂を減量しませう!

心が凄く軽くなりました。だから全てのものがよりハッキリと見えます。自分にとって本当に大事なものも以前よりよく判ります、ていうかもっと正確に言うと以前より「大事なもの」が圧倒的に減りました。そして前はあんなに嫌いだった東京の通勤電車でさえ今のところ楽しく乗れています。「グッとくるもの」ってわざわざ「名所」なんて行かなくても実はとっても身近なところに沢山あるんですね。

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皆さん「タイムボカン」って覚えていますか?僕子供の頃よく観ていのですが、たしか最終回は色々な時代を旅しながら探していた「ダイナモンド」が実は現在の自分たちの家のすぐそばにあった事が判明した、というオチだったと記憶しています。これってちょっと素敵なお話だなってふと思いました。

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自分が生き残る為に必要なもの全てが小さなスーツケースで完結してしまうという簡潔な生き方こそ「自由」へ一歩近づく事なのだと悟った時、自分の精神が確実に別の次元に移行していったと自信を持って言えます。しなやかになったというかヌケが良くなったというか…..

旅(若しくは人生)において究極的には「名所巡り」とか「食べ物」なんてどうでもいいんです(とは言っても「究極的に大事でない=全く大事でない」という訳ではないですよ。美味しいものは大好きです)。(少なくとも僕にとって)一番大事なのは「人」でした。今回の旅では多くの芸術家や魂の純度の高い方々と時間を過ごさせて頂き、いい事悪い事(←同義語)色々やりました。単に自分が幸運だったのかもしれません。或は全ての責任や拘束から解き放たれたばかりの状態にあったせいでいろいろな事象が「グッと」きただけなのかもしれません。元々楽観的な上に躁状態が重なって眼に入って来る何もかもがハレーションを起こしていたのかも…….以上全て認めます。

でもジョン・刑事もとい形而もとい啓示もといケイジもいみじくも語っていた様に;

I have nothing to say
(言うべき事は何もない)

But I’m saying it
(しかし私は今"それ"を語っている)

That is poetry
(これぞ「詩」也)

なんかとりとめがなくなってきました。「ネットに上げる文章にしては長過ぎる」といつもお叱りの言葉を頂いております故、今回はこの辺で自粛させていただきます。

ダイエット直後だから言えるのかもしれませんがお腹の周りの脂肪を気にするよりまずは魂の周りの脂肪に気をつけたいものでございます。

乱文誠に申し訳ございませんでした〜

●西方見聞録其乃弐拾: ヘドニストのジハード(快楽主義者達の聖戦)

October 02, 2005

9月23日金曜日朝、友人混沌(= Quentin)とちんちん電車の停留所で別れてユーロスターに飛び乗り、一路今回のロマン紀行最後の巡礼地である花の都巴里へ!この日はJAPレーベル・メイト、Franckのお友達でミュージシャンのBenjaminと昼過ぎにバスティーユ広場で待ち合わせているのですが今やこの二つの都市間の所要時間は若干1時間20分!日帰りも全然可能なんですね〜。

で、このベンジャミン、フランクを通じで彼の音楽だけ聴いた事があるのですが(まだこの時点ではメエルのやり取りだけで直接逢った事なし)一聴して「この人天才!」。

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今回色々御世話になったCANのIrmin Schmidt師は初めて聴くCDとか大体さわりをちょっとしかかけません。いみじくも「最初の16小節、或は15秒位聴けばそのミュージシャンの器量は大体推し量れる」と仰ってました。僕も仕事柄そんな聴き方しかしませんが、実にその通りだなと今更ながら痛感しています。多くの”自称”ミュージシャン、そして”自称”音楽ファンは曲の中で一番大事なのは所謂「サビ」の部分だと思っていますがこれは大きな間違い。「聴かせ所」と「最重要部分」は違うのです!オープニングに何のエネルギーも感じられない作品、そして最初に握手したときに何のエネルギーも感じられない作曲家はほぼ100%音楽的にも人間的にも大した事ないです。

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ベンジャミンの作品、友人・知人の創った音楽でこれほど衝撃を覚えたのは初めてといっても差し支えなく、以降自分のラジオ番組Massiveloopでもハードローテーションでプレイしている他、かつて選曲を担当していたTokyo FMのPrime Time Radioでも何度かかけたりしました。番組のDJだったジョージ・ウイリアムスも彼の音楽にもの凄く感動して「是非国際電話で繋いでゲストに呼ぼう!」なんて言っていた程。なのでこの出会い、僕にとっては大好きなミュージシャンに逢う、みたいな心境なのです。

ホドロフスキー老師と逢った時以来2週間以上ぶりの巴里、またまたピーカン空で迎えてくれました。で予定より早くバスティーユに到着してスーツケースをごろごろ転がしながらバスティーユ広場で時間潰し。東京を出る前はこういった「無駄な時間」が本当に嫌いだったのですが、長い旅を経た今は全然苦にならなくなった自分がいるのに気付きました。兎に角、時間がすこしでも無駄になるのが嫌いで電車や信号とかでもギリギリ間に合わなかったりするともの凄くイライラしたのですが、やっと些細な事では侵される事がない心の平安が少し得られたような気がします。

しかし待てども待てどもベンジャミンらしき人は現れず、携帯に電話をしても留守電のまま。ギリギリまで待ったのですが次のアポがあったので結局その場を去る事に。かくして次の目的地は巴里で最もお洒落なラジオ局、Radio NOVA!住所をあてにやってくると表からは何の看板も出ておらず、お店かレストランの勝手口みたいな雰囲気。何度も前を行き来して「本当にここなのか?」と思ったりしましたが、住所を見る限りここ以外ありえないので「えい!」っと入ってみると中庭にやっとこ見慣れたNOVAのロゴが!かくして仕事で何度かお世話になったMarc氏と初対面を果たし、NOVAのスタジオとかを色々と見せていただきました。その後またまたコーディネーション等でよくメエルや電話のやり取りをしているBintou女史も合流して三人でおランチ。近くのカフェで食べたのですが勤務中でも普通にワインやビールを飲むのが話の分かるパリジャン。この時いただいたサラダもスバラシイ!っていうか仏蘭西のサラダは世界一ですね。「たかがサラダ云々….」と言われる方は是非サラダ宗主国(?)仏蘭西にてお試しあれ!

その後NOVAに戻りMusic Directorの人と会ってJAPのCDを渡したりとかプチ営業活動をしているといきなりNOVAにベンジャミンから電話があり、「今近所にいるから直接NOVAに来てもいいか」との事。かくしてNOVAのレセプション・ホールにて初めて出会ったベンジャミン - 長身にボロボロのジャケットとスラックスを纏い、いかにもピアニストらしく猫背。凄い眼力の落ち着きのない目の持ち主で逢う人全員に’Bon Jour’ と声をかける姿がとても「セトギワ感」溢れていて印象的。待ち合わせに来られなかった事を僕に詫びた後で理由を説明してくれました。どうやら彼は今巴里ではなく独逸の国境に近い仏蘭西東部に住んでいてこの日は朝早く車で来たらしいのですが、途中で警察に止められ、もう7年以上前から運転免許証が無効になっている事がバレてずっと警察署で絞られていたとの事。丁度僕が電話した時は警察の尋問中で電話が取れなかったんだ、と説明してくれました。

その後二人でバスティーユ広場近くのカフェに座りビールを飲みながら色々話をしました。僕がどれほど彼の音楽が好きかと言う事を説明すると照れくさそうに「ありがとう。でも僕は何でも詰め込みすぎる傾向があるから音を整理してくれるパートナーが必要なんだ」と。今はどんな曲を創っているの?と訊くと「ロックとダンス・ミュージックを融合したような…..言ってみればMichael JacksonのBilly Jeanの現代版みたいなものを創ろうとしているんだ。Billy Jeanは凄い作品さ。あの曲のコード拾った事あるかい?あの曲の凄さはギターやピアノで和音を弾きながら自分でメロディを唱ってみて初めて判るんだ。マイケルのメロディ感覚はモーツァルト並だよ」との答え。マイケル・ジャクソンを天才と賞賛する人って100%信用出来ます。巴里は好き?という質問に対しては「巴里の女の子は好きだね」との返事。会話中も女の子が通るたびに必ず目線がそっちの方に泳いでいるベンジャミン。すぐ我に帰ってニコニコしながら「俺は’Horny Bastard’さ」。確かに巴里は(プレゼンが)美しい女性、多いですね。「究極的には美とは不快なものさ。ランボオの”地獄の一季”の最初の部分に「ある日僕は美を膝に乗せた。僕は彼女を苦々しく思った」という下りがあるけど今程それを強く感じる時はないね」と僕が言うとベンジャミンは「うん。美というものは水と火の元素から成っているんだか、つまりは相反する要素で創られているものだからね」との答え。不快で残酷なものに心を奪われるのは不思議な快楽ですね。また楽器は?と訊いたら「ピアノ、ギター、ベース、ドラムス。僕は凄くいいジャズ・ピアニストなんだ」との答え。奢りが一切感じられず本当の事を率直に言っているだけなんだという事がすぐ判ります。子供のときから音楽を習っていたのですが14歳の頃楽典知識は自分の音楽にとって邪魔だと感じ、以降「忘れるように」しているらしく「楽譜なんて時代遅れの表記法だ」と語っていました。「今ボクにとって一番大事な楽器はこれさ」と自分のSony Vaioを指差して語るベンジャミン。

冷たいビールが美味しい!

そんなこんなで話は尽きる事がありませんでしたが、この日の晩は生まれたばかりの子供の世話をしに彼女の家に行かなければならないとの事で日曜日にもう一度逢う事を約束してベンジャミンとは別れました。その後倫敦時代からの友人Chrisに連絡して彼女の家に向かい荷物を降ろした後、サン・マルタン運河の畔にある「北ホテル(Hotel du Nord)」へ晩餐に。1938年に制作された岩波ホール系名画「北ホテル」の舞台となったところですが、今はバー・レストランとして営業しています。外観は当時の佇まいを残しており凄く雰囲気はいいところですがクオリティの割にはお値段やや高め。

食事の後はNOVA主催のクラブ・エベントに出動!Chrisは疲れていたようなので僕一人でペール・ラシューズ墓地の裏の方にあるクラブへと行きました。”Who stole the soul?”という名の通り一応音楽はファンク&ソウルという事でしたが夜も進むにつれてどんどんガラージに。この辺はある意味判りやすい展開ですよね。12時半位から客も入り始めてかなりの盛り上がり!

ウォッカのショットとかを飲んでいい感じに酔っぱらったところで ”朝までコース” はちょっと………と思い徒歩で帰宅を決意。泊まっているChrisの家はペール・ラシューズ墓地からナシオン方面に歩いて30分程度のところにあるモンガレイ地区。ペール・ラシューズ墓地とナシオン広場を一直線に繋いでいるアウ゛ェニュー・フィリップ・オーガストを夜中の3時過ぎにふらふらと歩きながらいよいよ残り2日余りとなった長かったようで短かったようで長かったような短かったような僕の欧州大陸の放浪を振返ってみました。

飛行機の予約も支度もぎりぎりまでせず最後の最後まで「本当に行けるのか?」と思いつつ何とか巴里にたどり着いたのがもう2 ヶ月半も前。正直最初着いた時は疲労が極限状態だったのに加えて酷暑と夜な夜な宿泊地が変わるという無計画さも相まって本当に「巴里の憂鬱」状態。方位学的にもあまりいい方向ではなかった今回の旅。そのせいかも、なんて思った時もありました。でも旅が進むにしたがってどんどん気運が上昇。あらゆる美しい出来事が予定外に起き、また世にも稀な純度の高い魂の持ち主達とも数多く逢えた我が放浪。結果オーライ100%完璧な旅でした。自分が生き延びるのに必要なものは全て小さなスーツケースに収まっているという事を実感した瞬間!これは仏教用語の「小悟」という言葉を借りるより他表現のしようがありません。この絶対不可侵な自由と共に僕は残された人生を生きて行くんだ、と決心した瞬間、眼の奥の方より熱い感情が込み上げてきました。薄着でも歩ける暖かい巴里の秋の深夜、本当に森羅万象に感謝出来る時間が持てました。

翌24日のお昼はリヨン駅の近くにあるサルディーニャ料理のお店へ。自家製ラヴィオリを頂いたのですが、これが「昇天もの」。素晴らしい味の芸術作品で御座いました。しかも僕らの隣には仏蘭西人俳優であのモニカ・ベルッチの夫であるVincent Casselが食事をしています。なんでも噂によるとここはモニカが巴里で一番お気に入りのレストランだとか。どうりで美味しい訳です。でも願わくばモニカに逢いたかった........

お腹が幸せになった後は自己流観光。まずは第六区にあるオスカア・ワイルド終焉の地、L’hotel。それからその直ぐ近くにあるセルジュ・ゲンズブールの家へ。セルジュの家があるのは革命以前から続いている貴族とかが住んでいるというセーヌ川に程近い高級住宅街。そこに忽然と現れる場違いなもの凄いグラフィティだらけの家。でもそれは単なる「落書き」を超越し、システィーナ聖堂のミケランジェロのフレスコ画にも似た巡礼者達による宗教的「コラージュ壁画」。

その後は今回の旅で不思議と縁のある霊界分譲住宅地訪問。この日はモンパルナス墓地にてサルトル、ボーボワール、ゲンズブール、そしてボードレールの墓前を訪れました。御墓参り後はかつてピカソ、コクトー、マチスやF・スコット・フィッツジェラルド等が常連だったというモンパルナスのCafe Selectでチルアウト。最初はカフェ・オーレでも頼もうかと思っていたのですがF・スコット・フィッツジェラルドがかつて来ていたと思うと「アルコール以外を飲んでは失礼ぢゃなひか!」

そんな訳で往年の時代より殆ど内装はそのままというCafe Selectを出るときにはすっかり出来上がっていた僕。そのままサンジェルマン・デ・プレにあるギリシャ料理のお店でChrisと彼女のお友達と合流。美味しいギリシャ料理とギリシャ・ワインでエピキュリアンなひとときを満喫。

翌日は欧州滞在最後の日、という事でとりあえずBenjaminとTomo@parisさんに連絡して逢おうと思っていたのですが行き違いばかりでなかなか連絡取れず。結局この日の午後はバスティーユ近くのカフェでワインを飲みながら書き物をしておりました。

Tomo@parisさんと連絡が取れたのはその日の晩。「今からでも御飯食べに来る?」というお誘いでサンジェルマン・デ・プレにあるTomoさんの素敵なお宅にお邪魔。Tomoさん手作りの美味しい料理をいただきながらワインをぐびぐびと。80’s音楽に造詣が深いTomoさん(本当に求道的とさえ言える程よく御存知ですよね)、相当なぬいぐるみコレクターでもあるのですが80’s激レア・アイテムもお部屋の隅々に見受けられます(写真3参照)。

その辺の話題で盛り上がりいい感じにお酒が回って来たところで時計の針は12時を指している事に気付きおいとま。僕が出る前Tomoさんしきりに「大丈夫?」と訊いてきて僕は「全然大丈夫ですよ!」と元気よく答えていましたが道を歩いていてTomoさんが何であんなに心配していたか判りました -「これってもしかして千鳥足ってやつ!」

お酒は好きなれど所謂「完全泥酔」で「潰れる」に至ることは殆どない僕ですが、この時はちょっとヤウ゛ぁかったですね〜。かろうじてメトロのOdeon駅にたどり着き、4号線に乗ってStrasbourg-St. Denis駅で9号線に乗り換えるのですが、9号線のプラットフォームでベンチに座って電車を待っていたらマジで動けなくなってしまい、刻一刻と終電の時間が近づいているにも関わらず電車を2本ほど御見送り。「このままここで一晩過ごしたら明日の飛行機にはまず乗れないよな…..まあそれもいいか」なんて漠然と考えながら意識が遠のいていきました…….

“Cava?”という声で意識を取り戻し、見上げてみると片手にカールズバーグのビールを持った仏蘭西人の酔っぱらいさんが心配してくれて声をかけてくれた模様。すかさず”Cava bien! Merci!”と答えて泥酔スマイル。国境を越えたヘドニズム原理主義テロリスト達の同志に対する麗しい友情に感謝!お陰さまで最終になんとか乗ってChris宅へ奇跡的に到着。

欧州大陸で過ごす最後の晩のディテールに関しての著述は自粛致しますがカ・ナ・リの惨状、文字通り「反吐二ストの聖戦」でした、ええ。

●西方見聞録其乃壱拾九: ハートの形をした街 - 混沌と共に呪われた詩人達の足跡を追って

September 29, 2005

いよいよ伯林出発となった9月19日月曜日。朝四時という普段ならまだ床にすら就いていないような時間に起床。お世話になった友人アレキサンダーと一緒に彼の小さなキッチンで最後の朝食をいただいてSchoenefeld空港へと向かいました。まだ表は真っ暗。朝というよりむしろ「真夜中」といった趣き。最後まで大丈夫だと言ったのですが結局空港のそばの駅まで一緒に来てくれたアレキサンダー。「今度絶対に作品を一緒に創ろうね!」とお約束してお別れしました。

かくして次の目的地は「欧州の首都」ブリュッセル!しかし飛行機の到着地はヨーロッパ通貨統一の舞台となった阿蘭陀の街マーストリヒト。「マーストリヒト条約」で有名な所ですね。ここからブリュッセルまでは約1時間半かかる上、出発も朝の7時15分と悪条件てんこ盛りですがそれもその筈、このチケット、なんと4ユーロ(約542円)という破格の安さ。実際は空港税や燃料税がこれに加算される(さすがに税金の価格破壊はありません)のでこれに約20ユーロ(約2,710円)程上乗せされますがそれにしてもあり得ない安さ、っていうか「絶対モト取れてないだろ!」。

なにはともあれマーストリヒトに着くと「寒っ!」。あと何気に阿蘭陀って英語表記少なくて大変。それでもなんとかバスに乗って9時過ぎにマーストリヒト駅に到着。電車の切符を買ってからブリュッセルで御世話になる予定のQuentinに電話をすると眠そうな声で「アロー?」どうやら最近亡くなったお祖父ちゃんの家に前の日の晩行って一人で一晩中大音量で古いショパンのレコードを聴きながらキャビネットにある酒をランダムに飲んでべろんべろんになっていたとの事。普段は元気一杯なのに珍しく覇気のない感じでしたがそれでも御昼過ぎにブリュッセル中央駅で待ち合わせをしました。

このクウェンティン君は西方見聞録其乃六でも言及した友人Danielを通じて知り合ったお友達。去年日本に来た時家に泊まっていたのですが結構波長が合ったんです。芸術家肌で純粋で浮世離れしていてそのくせアンガージュモンしている所なんかとてもDanielに近いものを感じます。そんなクウェンティンとブリュッセル中央駅で合流してブリュッセル旧市街をそぞろ歩き。その間小便小僧の前で2ショット!その後、前の日に引っ越したばかりというクウェンティンの新居へ。

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彼のアパルトマンはベースメントながら大きさは40平米はあろうかという一人で住むには十分過ぎる広さ。床が可愛いタイル張りで古いアップライトピアノが暖炉の横に置いてあったりします。最初家賃は80ユーロ(約10,837円)と聞いて「週で?」と聞いたら「月でだよ」!伯林も生活費&家賃は破格でしたがブリュッセルはそれを上回る安さ。4階立ての世紀末退廃デコレーション仕様の立派な庭付きお家が月1,000ユーロ(約135,468円)で借りられるんですよ!

何か家賃の話ばかりで恐縮ですが、エンゲル係数って文化(特にオーガニックなユース・カルチャー)と実はかなり密接な繋がりがあると思うんですよね。

でもここも予想通りシャワー&給湯器無し!しかもトワレは外にあるという完全な19世紀仕様。幸い彼のお祖父ちゃんのアパルトマンが徒歩3分の所にあるのでここでシャワーを浴びる事が出来るのですがそれにしてもここもボヘミア〜ン♪

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その後引っ越しをしなきゃいけないと言って出て行ったクウェンティン。その間僕はお留守番&執筆活動。一時間以上経った後、街の反対側に位置している彼が以前スクワット(違法占拠)していたというアパルトマンから途中にあったスーパーマーケットから「借りた」というショッピング・トローリーを押して戻ってきました。鍋やソファーや布団や洋服を目一杯積んだショッピング・トローリーを押して欧州の首都を片道30分以上かけて横断するクウェンティンの勇姿!シビレます。

帰って来て開口一番「警察にジロジロ見られてちょっと怖かった」そりゃそうでしょ!っつ〜か職質されなかったのはラッキーだったんぢゃなひ?。ショッピング・トローリーは「また明日も使うから」といって家の前に置きっぱなし。このトローリーが結構気に入っているようで何度もニコニコしながら指を指して”My car!”と言っていました!

この日の晩、二人で食事をしに外へ出かけると「混沌!」という叫び声が!振り向くとそこにはカフェでビールを飲んでいるフーテンな無頼漢の集団が(Quentinを"クウェンティン"と読むのは英語の発音なんですね。最初仏蘭西人に”クウェンティン”といっても”誰?"って感じの反応だったので、すかさず"こんトん"と言ったら"Ah,OK. こんトん!"とすぐ納得)。なんでもかつて混沌が在籍しておりそこそこ有名だったベルギーのバンド、Orange Kazooのメンバーの人達。みんな髪の毛も髭も伸び放題で手も顔も汚れまくり。服も「無頓着」としか言いようがないかなり「セトギワ感」溢れる方々でしたが、話をしてみると実は西方見聞録其乃四でも書いた前衛戯曲、”Je suis Sang”の作家、Jan Fabreの友達だったり結構マジでインテレクチュアルなソサエティのメンバーの方々。ビールがどんどん進んで我々が囲むテーブルの上はあっという間に空のビール・グラスで一杯に。更にその少し上空には目も口も手足すらもない新しい「生命」が空中遊泳。お店の人も表で大声で話す僕らを嫌がるどころか逆に気前よくチーズとか食べ物を次々に僕らにサービスしてくれます。"裾が霧のようになった"上着や外套を纏い、酔い潰れる寸前で理性が綱渡りする中、哲学&芸術論をカフェで闘わせるという何ともオールド・スクールで美しい貧乏芸術家&音楽家の姿 - この絶滅しつつあるベル・エポックな情景はどんな歴史的建物よりも異国観光情緒に満ち満ちております。

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欧州の街の殆ど全てがそうであったようにブリュッセルもまた中世の頃は城壁都市で今でも地図を見ると城壁がどこにあったか直ぐに判ります。街の中心部はその城壁跡内ほぼすっぽり収まってしまうのですが、この城壁が丁度ハートの形をしているのです。だから:

"ハートの形をした街"

(っていうかどっちらかといえばホームベースに近いのですが野暮な事は言いっこなしという事で)

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翌9月20日火曜日はブリュッセル市内のアール・ヌーボー建築見学。アール・ヌーボーの建物は50、60年代には人々に「醜い建物の見本」のように疎まれその多くが取り壊されているのですが、それでもブリュッセルには世界のどの都市よりもアール・ヌーボー建築が多く残っているそうです。ブリュッセルの建築物は19世紀後半から20世紀前半に建てられたものが主流ですが、この街の摩訶不思議な所は通りごとに建物が規格統一されておらず、ほぼ同じ時代に建てられたものばかりなのに建物個々のデザインや建築資材がかなり異なっているという点。これは欧州の他のいかなる都市とも違っています。仏語には「ちぐはぐな建築デザインで都市の景観を台無しにする」という意味のBruxifyという動詞まであるとか。かの仏蘭西の詩人ボードレールもブリュッセルに何年か滞在していた時期があったのですが、彼は「住民は教養がなく、臭く非衛生的で醜い街」とブリュッセルを忌み嫌っており、如何に、そしてどうして自分がブリュッセルをこれほど嫌いなのかという事を延々と書き綴った本まである程。でも僕は逆にそこに自由な空気を見い出せて好きです。ある意味伯林もかなりBruxifiedされた街でしたが、伯林の場合、戦前と戦後の建物が入り交じったりしている点でなんとなくその歴史的背景から現状の理由が見えてくるのですがブリュッセルのこの状態は本当に「天然」としか形容のしようがありません。でもやはりThe world’s most bruxified city(世界で最も天然なアーバン・ランドスケープ)の栄冠は我らが'大阪(旧姓'東洋のベニス大坂')'、次点'花の大東京'に捧げたいと僕は思います。

21日水曜日は東京でも一度逢った混沌のパパと三人でベルギー伝統料理を食べに出かけました。最も一般的なベルギーの田舎料理は牛肉をビールで何時間も煮込んだものにフライド・ポテトを付け合わせるというもの。これは偏食主義者の僕にはちょっと難しいので野菜を炒めたものにフライド・ポテトという組み合わせでベルギー・ビールと一緒に頂きました。

ブリュッセル滞在最後の日となる22日木曜日はお昼に混沌の家の近所で再びベルギー伝統料理(?)揚げたてフライド・ポテトをゲット。Mサイズの筈なのにLLと言われても納得のいく量。ベルギーではケチャップではなくマヨネーズで頂くのが主流なのでそれも頼んだらもの凄く気前良くぶっかけて頂きマヨネーズ・シチュー・ア・ラ・ポテト状態に。優に1,000Kcalはあろうかという恐るべき油の量でしたがちゃんと残さず食べました。

インターネット・カフェでメエル等をチェックした後、混沌と待ち合わせているハート形の街の真ん中に位置する目抜き通りBoulevard Anspachにある証券取引所前へ。合流した後、混沌が「観光」でヴェルレーヌがランボオを撃った場所に連れて行ってくれました。しかしいざ着いてみると本当に何の変哲もないどころかむしろ「本当にここなの?」と思える程ポエジィの感じられない都会の砂漠的風景が眼前に展開しているではありませんか。四角いその広場、真ん中にはとりあえず噴水らしきものがありますが、それを囲んでいるのは19世紀と20世紀の建物がランダムに並んでおり見事にBruxifiedされております。更に僕、ランボオに関しては伝記を何冊も読みあさっており、ヴェルレーヌの母親を含めた3人が駅に向かう途中、というか電車を待っている最中に起きた事件だったというのは知っていました。なので混沌にこの近くに駅があるかどうか訪ねたところ「Gare du Midiという駅があるけど歩いて15分位かかる」との事。「地理的に微妙につじつまが合ってないな」と思いました。

この四角い広場の4つの角の内3カ所にカフェがあります。二人で「この中のどれかでもしかしたらランボオとヴェルレーヌは飲んでいたのかもしれないね」なんて話していたら混沌がだんだん興奮してきて「カフェのオーナーに訊いてみよう!」

という訳で最初は歩いて来た北の方向から向かって左奥にあるカフェへ。「ここで二人はベロンベロンになって事件が起きたのかも」と期待に胸膨らませて入ってみると50年代、60年代のスポーツ写真が壁一杯に飾ってあり内装もかなり50’sな天然系のお店。とても文学の香りがする場所には見えません。バーにいるおじさんに混沌が仏語で話しかけると「あの隅に座っている男に訊け」と喧嘩で交通事故かで顔が半分”破損”しているムッシューを指さしました。その人に同じ質問をするとダミ声で「だれだっ、その”ランボオ"って奴は?俺はこの土地に50年以上いる言わば"生き字引"だぜ。この辺の奴らの事なら皆知ってるがそいつらの名は聞いた事がねえ」との返答。どうやら常連の客の事を話していると勘違いしている様子。

次のちょっと40年代っぽいレトロな内装のカフェに行って同じ質問をバーのおばさんにするとやはり狙撃事件はおろか「アルチュール・ランボオ」と「ポール・ヴェルレーヌ」の名前すら聞いた事ないらしいです。

一番高級そうな3つ目のカフェでも従業員及び常連客に訊いてみましたが、やはりだれも「そんな事件聞いた事ない。”ランボオ”って誰?」と異口同音に。

ボードレールが「教養のない市民云々…」となじってこの街を嫌ったのもあながち感情論だけではないかも、と混沌はため息まじりにポツリ。「駅からもあまり近くなさそうだし、もしかしたら場所が違うんぢゃないの?」と僕が言うと「いや、ここで絶対に間違いない筈だ!」と混沌。

最後の角にはそれほど古くなさそうなホテルが建っています。二人で顔を見合わせてから一抹の望みを託してホテルへ。フロントには若い女性が立っています。”Excuse moi, mademoiselle”と混沌が同じ質問をします。仏語を解さない僕は二人のやり取りをじっと見守っておりましたが、二人の表情から判断するに手応えのあった予感。

5分程話してから御礼をしてホテルの表に出た後、混沌が一息ついてから僕の方を見て「やっぱりここだったよ!」このホテル、19世紀当時はカフェだったそうです。1873年7月10日ヴェルレーヌ及びヴェルレーヌの母親、そしてランボオの3人が汽車を待ちながらそのカフェで飲んでいたのですが詩人の二人は程なく泥酔。この前の歩道でヴェルレーヌはランボオに3発発砲し、その内の一発がランボオの左手首に命中したのです。またこのホテルの向かいにある道だけ他の道より不自然に広いのですが、実はそここそかつてMidi駅があった場所で、この噴水は昔の駅前ロータリーだったのです!

その日はその後ずっとこの話題でずっと盛り上がり。夜は混沌のお友達のバンドを観に行き、ライヴの後ミュージシャン達も交えてずっと飲んでいると閉店直前にバーによる「ビール無料」の粋な計らい!当然皆で飲みまくり。

いい感じに酒が回ったハート形の街での最後の夜、締めは”Cheers to Rimbaud and Verlaine!”

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あ = 黒
い = 赤
う = 緑
え = 白
お = 青

母音よ...

「あ / a」の色?

それは異臭と番い飛び回る銀蝿が腰に巻く
毛むくじゃらビロードのコルセットの「黒」...

●西方見聞録其乃壱拾八: 桐野美耶子の晩夏 最終回 - ハッピーエンド

September 27, 2005

またまた話は前後しますが、倫敦では多くの旧友と旧交を温め、貴重な時間を過ごさせて頂きました。その中でも何から何までお世話になったPUCCYさんにこの場をお借りして改めて御礼を述べさせて頂くと同時に心からのリスペクトを表現した素敵なポートレートも掲載させていただきます。

最後に一つお伝えしたいお話があります。

BBCでドキュメンタリーを制作している友人Gavinとは倫敦滞在中何度か逢ってノッティングヒル・カーニバルやテート・モダンに一緒に行きましたが、彼は今年日本でもTBS系列で放送されたドキュメンタリー'HIROSHIMA'の制作にも携わっております。

このドキュメンタリー、今年原爆投下60周年という事でBBCがかなり綿密に独自の調査をして制作したもの。Gavinは日本での取材時僕の家に泊まっていてこの取材に関して当時から色々話は聞いていたので是非完成品を観たいなと思っておりました。結局倫敦滞在時にDVDで観ましたが凄く良く出来ていたと思います。

この"HIROSHIMA"は英BBC、日TBSを始め亜米利加、加奈陀、仏蘭西、独逸、西班牙、オーストラリア、ニュージーランドで放送されたのですが、このドキュメンタリーの内容に関して唯一米国の放送局からは注文があったそうです;

「もう少しハッピーなエンディングに出来ないだろうか?」

この話を聞いて今回の旅行において金銭上の都合で渡米を断念せざるを得なかったのを心から残念に思いました。

●西方見聞録其乃壱拾七: Do you believe in miracle (Anata wa kiseki o shinjimasu ka)?

September 26, 2005

尋常ではない血液内アルコール度数を細胞単位でひしひしと感じながら朝5時に起床して前の晩酔っぱらい過ぎて出来なかった荷造りを慌てて済ませAnnaちゃんとお別れをした後、重たいスーツケースを引きずって朝靄の立ちこめる早朝のウィーンの街を通り過ぎ機上の人になった9月13日火曜日の朝。

デフォルトで乗物内睡眠不可な僕ですが、この日は飛び立ってすぐ意識を失い、気付いた時には飛行機は着陸準備に。最初は状況を全く把握していなくて「離陸後何か問題が発生してプラハ辺りに緊急着陸をしようとしているのかっ?!」なんて思いましたが、眼下に広がる巨大な社会主義国家独特の規格統一された無機質な団地群を見て「これは東伯林だ!」

EU国家間のフライトだったのでパスポートコントロールもカスタムも素通りで着陸ロビーへ。予定より若干早めに着いた上、スーツケースが一番最初にベルトコンベアに乗っかって出て来たのでかなり早くお出迎え到着ロビーへ。10分ほど待っていると7年ぶりに再会するロシア人のアーティスト、アレキサンダーが大きな体ともっと大きな笑顔で迎えてくれました。

まず彼のお家へ行って荷物を降ろし朝食をいただいてから生まれて初めて訪れる街、伯林の市内散策へ。アレキサンダー大王はもう既に在伯林20年以上という事で本当に色々な事をよく知っていて事細かに教えてくれました。中でも19世紀からあり現在は半ば廃墟となっているダンスホールは圧巻!今でも使われているらしいのですが内装は完全に放置プレイ。でもそれが故に逆にグッときました。

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アレキサンダーのアパートは所謂アトリエ。床は絵の具だらけで天然ジャクソン・ポロック状態。伯林のアパートらしくかなり大きいのですが何よりも凄いのはシャワー&給湯器無し!お陰で毎朝キッチンにて水(!)で体を拭くというこの世に生を受けて初めてのボヘミアンで美しい経験をさせていただきました。伯林って本当に純粋芸術家の街です。

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翌14日水曜日より世界最大級の音楽見本市、Pop Kommがスタート!小さいながらも楽しい我がレーベル、日本音響制作有限會社もベルリンの2つのレーベルとスタンドを共有しつつ僕が代表で営業活動也。日本から持って来た30枚程のプロモCDは飛ぶ様になくなってしまいかなりの手応え!またこの日は倫敦で逢ったMinistry of SoundのJonasとも再会して「業界って狭いな〜」と実感。因にMinistryは僕が京都でやっているラジヲ番組’Massiveloop ’で色々御世話になっております。

15日のお昼は2年前に日本で出会い凄く仲良くなった伯林のヴィジュアル・クリエイター集団、PFADFINDEREIのオフィスへ足を運びました。皆本当にいい人ばかりなのですが中でも特に仲の良い2メートル10センチはあろうかという長身の友人CODECとおランチ・アンド・ランチ・ビア!

その後彼らのオフィスの上の階にある今をときめくザ・ベルリンなレーベル、BPitch Controlへ。ドアを開けるといきなりかのEllen Allien嬢がソファーに横になって電話をしているのですが、実に絵になっていてカッコいいんです。この世でカッコいい女性にかなうものはないですねぇ。電話が終わってからお話をしましたが僕の事を憶えていてくれていたようで来月来日する時には再会する事を約束しました!(10月14日にageHaで回すらしいので皆様要チェックですよ〜)

そんなこんなで予定よりかなり遅れてPop Kommへ。でもやはり「日本のレーベル」への感心の高さは並大抵ではありません。本当に今欧州大陸、特に独仏&オーストリアにおける日本国のブランド・ステイタスは英米に近い、というか25歳以下のナウでパンチなヤングにとっては下手したらそれ以上ですよ!こんな事日本人として誇りにしなくても良いですが、もう劣等感を抱く必要は無い(っつ〜か最初からなかった)という事実は知っておく価値があると思います、ええ。

Pop Kommの後はアレキサンダー大王宅へ戻って一休みした後、旧伯林の中心地で戦前はカイザーの宮殿があったというAlexander Platzへ。この晩Pop Kommの一環で行われていたドイツのレコード大賞みたいなやつのアフター・パーティーだったのですがPFADFINDEREI Posseの粋な計らいで招待状を頂き、赤いカーペットの上をベンツやジャガーでやってくるタキシードを着たジャーマン・セレブ達に混じって入場という笑っちゃうシチュエーション。旅行中の僕はタキシードはおろかまともなスーツすら持っていませんでしたがレセプションのお姉様がとっても優しい人で何の問題もなく到着3日目にして伯林のセレブな上流社会に侵入成功!東京で逢った友人、HonzaやChrizla達とも再会し、色々お話をしながらタダ酒とタダ飯を頂きつつ右を見ても左を見てもジャーマン・モデル&ポップ・スターだらけのお洒落で儚いヒューマン・ウォッチングを堪能。

このパーティーが佳境に差し掛かった頃、CODECが「次のパーティーに行こうぜ!」と。かくしてモスクワの赤の広場、もしくは北京の天安門広場に匹敵する巨大さのAlexander Platzを霧雨の中横断して巨大な雑居ビルの11階にあるクラブへと移動。なんとここでは2 Many Djsがプレイしていて後半にはMUのリード・シンガー兼モーリス・フルトン夫人であるムツミさんが2 Many Djsと共にライヴ・セッション!アルコール&XXXXでパッキパキになってムツミ嬢のカリスマ的パフォーマンスにノック・アウトされた一夜でした。

翌日はCODECのアパートの大きなリビング・ルームで目覚めましたが、この日の早朝にオーストリアに行く予定だったCODECは既にいなくて「好きな様に使ってくれ」と鍵だけ預かりました。微妙に二日酔いの中、最終日であるPop Kommの会場へと向かいました。プロモ資料は殆ど手元になく、名刺交換に終始しましたがやっぱり感じたのは「自分はあまりビジネスには向いていないな」という事。まだ日本よりは欧州の方が自分的には色々やりやすいのですがそれでも自分の能力の限界を痛感。どなたかインディ・レーベルのプロモーションに御興味のある方は僕に御一報下さい(要英語)。

17日土曜日はアレキサンダー大王と市内観光。ブランデンブルグ門からポツダム広場等々押さえておきたい所は一通りカバー。その後はピーカン空の下、運河の畔のカフェでバイエルン独特のレモンを添えて飲むラガー・ビールを頂きました。そこで偶然逢ったアレキサンダーのお友達と一緒に翌日行われるドイツ総選挙について話しているとトルコ系移民による共産系政党によるデモがやってきて選挙戦ムードも一気に盛り上がり!?

日本でも報道されたかと思いますが、ドイツ人にとって今回は政権交代がかかった極めて重要な選挙なのです。下馬評では右翼保守派でイラク戦争賛成派のCDUがかなり優勢との事で基本的に左翼リベラルな伯林市民はかなり固唾をのんで動向を伺っているように見受けられました。アレキサンダーをはじめ全員が異口同音に「明日はミラクル(奇跡)が必要だね」と半ば絶望気味につぶやきながらよく冷えたビールをグググっと。

この晩一旦アレキサンダー宅に戻って小休止の後、午前1時過ぎにクラビングに出撃!伯林の公共交通機関は金土曜日及び祭日の前日は24時間運行!正にナイト・ライフの為にデザインされたといっても過言ではない街。この晩はMariaというクラブでEllenのDJを観に行きました(Ellenも後日HPの日記でこの日はDJをした後投票しに行ったと書いていました)。外気温10℃以下という過酷な条件下、吹きさらしの河畔で45分もまたされても全然めげずに伯林のクラバーの方々生き急いでおります。これは同時にBPitch Controlの伯林における人気の高さも如実に表していますよね。で問題のEllenのセットは東京で観た時よりもよりハー度でミニ丸でケミ軽な「伯林仕様」。結局この晩は翌朝9時過ぎまでパーレーした後、午後にDangerous Drumsというレーベルのマネージャー、Corinとミーティングがある事を思い出してCODECのアパートにふらふらと行って就寝。

伯林最後の日である18日日曜日、街の中心地にある古いユダヤ人教会シナゴーグの隣にあるカフェにてCorinとミーティング。今度日本音響制作有限會社とジョイント・コンピレーション・アルバムを出すという事でこの辺も含めて色々なお話をしたのですが、皆さん、我々の電子メエルってサーバーに2年以上保管されているって知っていました?アンチ・テロリズムの為だそうでキーワードを入れると過去2年間に世界中でやり取りされた全てのメエルから検索されるとか。

凄い世界になってしまいましたねぇ、何て話で盛り上がった後、アレキサンダー大王のお家へ戻ると彼は総選挙記念パーレーに出かけていて留守だったのですが小さな置き手紙がキッチンに。’Dinner is ready’と書いてありました。素敵なロシア料理を作ってくれていたのです。

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今年還暦を迎えて心臓に問題を抱えているAlexander、彼のアパートは4F(日本流でいう5F)にありエレベーター等は当然ない為長い階段を昇っていくのですが、息が切れ切れで本当に辛そうなんです。それなのにわざわざ外に買い物に行って僕の最後の日の為に料理を作ってくれていて、しかも大丈夫だと何度も言ったのに行きは空港まで迎えに来てくれたのみならず、明日も見送りに来るといってきかないのです!「朝4時に起きなくっちゃならないし、荷物も大してないし空港までの行き方は絶対に分かるから大丈夫だよ」と言っても「いいからもう何も言うな!」でピシャリ。

ロシアの人って本当に友達の為なら何でもやるタイプの人が多いですが、このアレキサンダーはそんなロシア人の中でも本当に情に厚い。それのみならず芸術に対して絶対に正直で如何に生活苦でも魂を売ったりしない人。還暦なのに給湯器すらないアパートに住んで創作を続けています。魂は実に高貴なのです。星の王子さまぢゃありませんが;

「この世で本当に大事なものは目で見えたり手で触れたり出来ないんだ」

西方見聞録其乃六で触れたもう一人の大事な友人、Danielもお母さんに「貴方はもう三十路を過ぎているでしょう。ケンブリッジ大学を出て立派な学歴があるのだし、銀行員とかもっと堅い仕事をそろそろ見つけたらどうなの」と言われた際、ありったけの誠意を込めて「お母さん、僕は銀行員になるより成功しなかったミュージシャンでいる方が遥かに幸せなんだよ」と言っていました。

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そのうちにアレキサンダーがパーティーから帰ってきました。どうやらシュローダー率いるSPDが下馬評を覆し予想以上に善戦。これでトルコ人移民の事実上の迫害もドイツのイラク派兵も当面回避されそうな気配。どうやら「ミラクル(奇跡)」が起こったみたいです。

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「芸術家にとって安定した生活よりももっと大事なものがある」のは誰でも知っている、或は少なくとも一度は耳にした事のあるありふれたフレーズだと思います。しかし文字通り”生きざま”と呼べるほど自分にとっての真実に痛ましい程忠実に貴重な毎日を生き抜いている人々と出会うのは次元を超越した体験です。僕もそうありたいと常々願っていますし、アレキサンダーにその事を言ったら「遠い日本で同じ様に生きている芸術家が存在しているというのを知っているだけで心の支えになるよ」と言われました。

まずいですね。がむばらねば!

●西方見聞録其乃壱拾六: ウィーン再訪 - 非日常乃終焉二伴フ痛ミ

September 22, 2005

ホドロフスキー老師との一期一会を果たした運命の晩から一夜明けた翌9月8日木曜日。ベッドの中でだらだらしていたら午前11時にフロントからの電話がかかってきて「もう一晩泊まって行く気なのか?」いえいえとんでもない、もうウィーン行のフライトを取ってしまいましたよ!という訳で慌てて荷造りをしホテルをチェック・アウト。再び運命のカフェに赴き自分の中では夏の仏蘭西の定番ドリンク、パスティスを飲みながらこの短い時間に起こった色々な事に思いを馳せました。その後シャルル・ドゴール空港へ向かい機上の人となり再び降り立ったのが今回の旅で最も心の琴線に触れた街、音楽の都ウィーン!

前回と違い今回はちゃんとウィーン市内の空港だったので電車でWien Mitte(そのものズバリ「ウィーン中央駅」)まで僅か17分という驚異的なアクセスの良さ(っていうか千葉県にある”新東京国際空港”がアクセス悪すぎ&電車代高すぎなのでしょうね)で市内へと到着。もう既に日はとっぷりと暮れていましたが、イルミナシオンの化粧を施した夜のウィーンはそれを一度見てしまったのを後悔する位胸にグッときます。

前回何から何まで御世話になったBabsiを通じて知り合ったお友達のAnnaにWien Mitte駅から連絡をしてたまたまその時開催中のストリート短編映画フェスティヴァルへと直行。開催地は街の反対側だったのですがさすがに2度目のウィーン、Uバーン(地下鉄)&ちんちん電車の連携もサクっと乗りこなして問題なく到着。歩道にドーンと置かれたソファーに座ってワインを飲みながらプロジェクターで白い壁やショーウインドーに投影された短編映画を見て歩くというなかなか奇天烈な企画。この地域で同時多発的に行われていてその場所ごとにドキュメンタリー、アヴァンギャルド、ストーリー物等々に分けて上映されています。観るのは勿論無料。この辺の文化に対する先行投資への気合いの入り方はさすが欧州。こういった芸術家の庇護が実際の芸術に対して本当に良い事なのかどうかは個人的に微妙だなと思うのですが(変な喩えですが肥料を大量に与えて育てた野菜と土の本来の力だけで育てた野菜とでは収穫の量は明らかに前者の方が勝るでしょうが食べてみて実際に美味しいのはどちらなのか、みたいな)その正当性はさておき特にウィーンは街の隅々に文化が感じられます。

その後洒落た今時風のカフェで晩餐をしてAnnaのアパルトマンに行きました。3ベッドルームある中の一室をあてがってもらったのですが、ここがまた凄い所で全体の大きさは軽く120平米はあろうかというアパルトマン。皿洗い機をはじめ3種の神器その他全て最新のものが最初から完備。内装は今時な感じですが、天井はウィーンらしく18世紀ロココ仕様のもの凄い高さ。最寄りの駅から徒歩一分。街の中心地までもドナウ運河沿いをそぞろ歩きで20分弱という驚異的な立地条件。これで家賃、おいくらだと思います?なななんと、怒濤の600ユーロ(約81,695円)也!東京でこの立地&設備だと確実に月25万円以上すると思います。倫敦でかなり似た条件のフラット(とはいっても間取りは同じですがやや小さめで設備もそこまで整っておらず立地ももっと中心地から離れている上、交通の便もかなり劣悪、しかもベースメントときたもんだ)に住んでいる友人Pさんのとこは月に1,000ポンド(約201,294円)、これを3人でシェアしています。Annaのところも3人で楽勝にシェア出来るサイズですからそうなると一人当たりのお家賃は約27,230円!そりゃ一週間に3日もバイトすれば暮らしていける訳ですよね。ホントこの辺はビバ・ヨーロッパ!てな訳でウィーン、芸術家には実に住みやすい街です。

この晩は夜更けまで二人でキッチンにて色々と語り合いました。友達とキッチンで飲みながらあーでもないこーでもないと語り合うって倫敦滞在時以来のデジャウ゛体験。

翌9日はドナウ運河沿いを散歩した後、ウィーンの建築家Hundertwasser(日本語で何て表記したら良いのでしょうか?’フンデルトウ゛ァッサー’?)のデザインしたアパルトマンを見に行きました。可愛い色使いと床すらも平坦ではないという有機的デザイン。執拗に植物を多用したり(これは全てHundertwasserの指定だそうです)本当にオリジナリティも高く、馬鹿の一つ覚えの様に自称「東洋的」、「ZEN的」ミニマリズムに固執する現在の建築&内装デザインに辟易し始めている僕的には心が洗われるような過剰の美学を実践する建物でした。

ここのカフェで僕のウィーンにおける定番ドリンクWeisser Spritzer(詳細は’ウィーン・モン・アムール’を参照)を煽りながらおランチをし、午後はウィーンの目抜き通りをそぞろ歩きしながらポイントポイントでカフェに座ってビールを飲むという実に優雅な時間を過ごさせていただきました。この晩はAnnaのママが来ていたので3人でDVDを観るという実にチルなひとときを過ごして就寝。

10日土曜日はだらだらと公園を散歩したりカフェに立ち寄ってWeisser Spritzerを煽ったりとデカダンな時間を過ごしました。この晩は宮崎駿の「ハウルの動く城」を観に行く予定だったのですがあまりにスラッカーしていて結局間に合わず…..

11日日曜日、念願の「ハウル」を観る。何故ウィーンくんだりまで来て「宮崎駿」なんだと思われる方もいらっしゃるでしょうが答えは単純「安いんです」。大人は6ユーロ50セント(約881円)、学生は3ユーロ50(約474円)ですからビデオレンタルが流行るわけないですよね。で、問題の「ハウル」、亜米利加では酷評されたらしいですが僕は好きでした。Annaも相当気に入ったようで「もう一度絶対に観に行く」と気炎を上げておりました。基本的にはこれまでの宮崎イズムの踏襲だとは思いますが、それでもその尋常ではないイマジネーションと根底にある「愛」は評価されてしかるべきではないかと。

ともあれ映画を観た後その晩遅く前回のウィーンで会い、倫敦滞在中も会ったBabsiのお友達Davidとカフェで再会し3人でウインナー・コーヒーを飲みながら宮崎&大友アニメに関して色々話しました。っつ〜かオーストリアの皆さん本当に日本のアニメや食べ物好きですよ。すこし前までは所謂日本贔屓の欧米人って僕の知る限り皆プチ・オタッキーな人ばかりで微妙に近寄りがたかったのですが昨今は完全にユースカルチャーの一部となったようで全然普通にモードな感じです。ディズニー・アニメ=オールド・スクール、ジャパン・アニメ=ニュー・スクールという図式が成り立っているというか、ディズニーによる子供向けアニメ独裁から日本のアニメがヨーロッパの子供達の魂を救ったみたいに思っている方も少なからずいらっしゃいますね。細かい技術的な事はともかく作品の目指しているところは日本のアニメの方がディズニーより遥かに高尚だとは思います、ええ。

翌9月12日月曜日は朝早く起床してオーストリアの国営ラジオ放送局ORFへと赴きました。凄い偶然なのですが僕が倫敦時代に住んでいた家の大家さんで今でも仲良くしているお友達Theresaの旧友が何と今をときめくオーストリアで最も有名な朝のラジオ番組のDJのDuncan Larkin氏なのです。「オーストリア版七尾藍佳」とでも申しましょうか。そんな訳で本番中のスタジオに招待して頂き、一応全国ネットのFM4リスナーの方々に’Hallo!’と一声。

番組の後Duncanは多忙だったので夕方にIrish Pubで待ち合わせする事にしてORFから程近いSt. Marx Cemeteryへと向かいました。ここにはあの楽聖Mozartが眠っているという音楽を志す者にとっては正に聖地。別に意識した訳ではないのですが今回の旅は墓参りが微妙に多いような気が致します。平日だったせいか巴里のペール・ラシューズとは違い人影も殆どなくまたまたMozartの墓前にて暫く佇んでおりました。ただMozartは極貧の中亡くなり、葬儀は最も安いコースで執り行われています - 即ち棺桶等一切無し、巨大な穴の中に他の多くの亡骸と一緒に放り込まれてその上から体が腐食して土に帰るのを促進する薬品をぶっかけられるという実に野蛮な方法で葬られているのです。ですからこの墓碑も「多分この辺に亡骸が捨てられたのではないか」程度の意味しかないのですよね。

その後Annaのアパルトマンの近くにあるイタリアン・リストランテにてお昼に手打ちパスタを食べたのですがこれが伊太利亜以外で食べたパスタの中でトップ3に入る美味!ケイパーとバジリコをふんだんに使ったトマトベースのソースが手作り卵パスタといい感じに絡まった正に味の芸術品!見た目が結構普通なお店で何の期待もせず空腹を満たす目的だけで入った事もあり超感動せれんでぃぴてぃ!ウィーンに行かれる機会がある方には是非紹介したいお店です。ランチ・ワインも白をグラスで頼んだつもりだったのにカラフェで来て「ま、いっか」。そんなこんなで昼間からほろ酔い状態。

その後Annaと合流してIrish PubにてDuncanと会い石畳の広い歩道で夕日がゆっくりと沈んでいく中ギネスをガンガン飲み、話し上手なDuncanに笑わされっぱなし。翌日はベルリン行きの飛行機に乗る為朝5時に起きなければならないのにDuncanと別れた後もAnnaと一緒にメキシカン・レストランでまたコロナを飲んで結構出来上がり!

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幼少の頃、親戚のお家に泊まりにいったり家族で旅行に行ったりした時の最後の晩、布団の中で必ず感じた悲しみと切なさの混じったちっちゃな胸の痛みがあったのです。楽しかった「非日常」の終焉を惜しむ苦痛とでも申しましょうか。

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この晩酩酊したままベッドに横になってアラームをセットし灯りを消すと窓から洩れてくる街灯の灯りに照らされた高—い天井がぐるぐる回っているのを感じました。遠くの方で酔っぱらいの同志が80’s Popsを歌ってるのが聞こえてきます…..

その時、あの懐かしい胸の痛みを何十年ぶりかに覚えました。

●西方見聞録其乃壱拾伍: Oscar et Alejandro - オスカアとアレッハンドロ

September 09, 2005

あまりにもアットホームな雰囲気でそれまでのセックス・ドラッグ・アンド・ロケンロールな旅の反動が一気に噴出したのか本当に倫敦滞在中は実に健康な日々を送っており(体重も若干増えたかも)皆様と分かち合う価値があるネタはあまりありません。故に日記は一時停止状態。でもお陰さまで元気です。

にもかかわらず予定より1週間以上長く滞在してしまった第二の故郷、倫敦を去る決意をして巴里行フライトを予約しようとしたら…ななななんと!通常運が良ければ50ポンド(約10,122円)以下で入手出来る格安チケットは完売(希望出発日の2日前では無理もありませんが….皆様も御予約はお早めに)。巴里迄片道なのに100ポンド(約20,244円)以下のチケットはほぼ無くユーロスターも149ポンド(約30,164円)という新幹線より立派なお値段。先月のクレジットカード引き落しが史上最高の17万円を超えてしまった後だけにちょっとまずいなと思いつつ、しかしどうしてもこの日に巴里に行かなければならなかったので(理由は後述)他に方法はないかと色々検索していると....... 倫敦-巴里片道特別価格17ポンド(約3442円)という破格のチケットが見つかったのです。しかしよく見てみるとCOACH(鞄屋さんではありません、長距離バスの意で御座います)で所要時間は怒濤の9時間!飛行機なら1時間弱の距離なのに….と思いつつ背に腹は代えられぬと断腸の思い(?)で!

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かくして当日は朝の5時に起床して長距離バスで巴里への陰鬱な旅。しかし前日散々ブルーだったからかいざとなってみると思った程辛くはなかったです。「気分」って結構主観的なものですよね〜♪。ドーバー海峡は船かと思いきやなんと巨大な貨物列車にバスごと乗せられてユーロ・トンネル経由。バスが貨物列車に乗って行く様はプチ戦隊もの状態。「合体」という言葉がぴったり!

かくしてほぼ2ヶ月ぶりに戻って来た花の都巴里。一日目は倫敦時代の友人Chrisとナウでヤングなパリジャンが集う街、バスティーユ地区のそこそこお洒落なカフェにてサクッとお食事(しかし気がつけばワイン2本も空けてるし......)。翌朝は早いので適当な時間で切り上げてホテルに戻りました。

翌9月7日水曜日。慣れない早起きしてまでやりたい「とある事」というのが今回僕が巴里に立ち寄った最大の理由なのです。それは西方見聞録其乃七で著述した友人Tootsが教えてくれた僕がフェリーニより小津よりキューブリックより偏愛している異端映像の魔術師、アレッハンドロ・ホドロフスキー老師がやっているという噂のタロット占いに行く事。ホドロフスキー老師、毎週水曜日に巴里のとあるカフェで一回につき20人までタロット占いをしてくださるのです。お金は一切頂かないらしく条件はただ一つ、「一ヶ月後にホドロフスキーに手紙を出す事」。この話だけで彼の人となりが伝わって来て涙が込み上げてきますが、とにかく予約するには朝7時にこのカフェにいって整理券を貰わなければならないという事で用意周到にくだんのカフェから徒歩1分(ていうか窓から見えました)のところのホテルの部屋までとって目覚ましも到着早々セット!ところが「どんな質問をしようかな」「なんて挨拶しようかな」なんて色々考えていたらあまりにもワクワクし過ぎて全然眠れなくなってしまいました.........

明け方ややうとうとして目覚ましの鳴る5分前にはキチンと起床。さわやかに目が覚めて髭剃ってシャワーを浴びてからくだんのカフェに足を運んでみると!

タロットのタの字も感じられない雰囲気。客もまばらでギャルソンが仕事に勤しんでいるだけなのです。それらしき事が壁に書いてある訳でもなく、なんか「あの〜ここでタロット占いなんてやっていますか?」なんて聞くだけで変人扱いされそうな空気。

「結局昨日の夜は訊きたい質問も考えられなかったしぃ〜、アレッハンドロは今マリリン・マンソン主演の映画を撮影中で巴里にはいない可能性が高いってTootsも言ってたしぃ〜、縁がなかったのかな」と思いカフェ・オーレとクロワッサンだけ食べて(美味)一応気になるのでもう一回だけ夜ちょっと顔出してみる事にしてそのカフェを後にしました。

因に後で気付いたのですが仏蘭西の国境を超えた時点で腕時計の時間は変えたのに(英国は他の西ヨーロッパ諸国より一時間時差があるのです。へそ曲がりの英国人、憎みきれないろくでなし〜)、目覚まし時計は英国時間のままだったので、実は知らずに一時間遅刻していたのです!南無三….

別に巴里に観光で来た訳でもなく、今回は時間がないので友人にもまともに連絡もとっていなかったので昼間は一人でだらだらと巴里市内を散歩。そうこうしているうちに気がつくと巴里最大の霊界分譲住宅、ペール・ラシューズ墓地の前におりました。

ここはドアーズの故ジム・モリソンやショパンをはじめ多くの著名人が眠る墓地。その中には僕が最も愛している19世紀耽美主義の作家で或る意味 "人類史上最初のメディア・スタア" であろうオスカア・ワイルドもいるのです。

僕が未だにロンゲ党なのも、スタア性のある人が無条件に好きなのも、パラドックス・フェチなのも実はオスカア・ワイルドの影響であるという位本当に大好きな人なんです。彼の墓参りには去る1999年に一度来ています。霧雨が降る肌寒い秋の巴里、オスカアが生前最も愛していたという白い百合の花たばをもって広いペール・ラシューズの中を殆ど迷わずに墓前に行きました。

この日は前回とはうって変わって9月だというのに気温は30度以上。文字通りピーカン空の下、またまた不思議と迷わずあっという間に"思ひ出ほろほろ"なスピリチュアル・スポットに6年ぶりにたどり着きました。今回オスカアの墓石には無数のピンクのリップスティックのキスマークによるファンシイなデコレーションが!「男色家の彼が喜ぶのか?でも愛は伝わるよね」なんて思いつつお墓の前に腰を下ろしました。

木漏れ日すらも肌に針のやふに突き刺す炎天下、バゲットとチーズを食べながらビールを飲んでそれはそれは長い長い長い長い長い間オスカア・ワイルドの墓前に座っていました。ほんと、「偏愛」、バカですよね。でもいいんです。これが「至福」なのですから。ほんと、どうしようもない位好きなんですよ、ええ。

時々観光客が来ては写真を撮って去って行く、そんな状況をアルコールがいい感じに回っているうつろな目で見守りながら生温くなったビア酒を煽っていると管理人と思しきおじさんがなにやら語りかけてきました。どうやら墓地内ではアルコールを飲んではいけないと言っている様なので’Okay, okay.’と言ってその場を立ち去る事に。

以降巨大なペール・ラシューズ墓地をさまよう事数時間 - その間偶然見かけたのがサラ・ベルナール(←この人も凄く惹かれます。カッコいい女性ですよね)、エディット・ピアフ、そしてイヴ・モンタンのお墓。またここには第二次世界大戦中強制収容所に連れて行かれた多くのユダヤ人の鎮魂碑も建立されていたり(写真2参照)、1871年に世界史上最初の純粋共産政体、パリ・コミューンの勇士達が命ある限り抵抗を続け、最後にこのペール・ラシューズ墓地に逃げ込み一番奥に或る乗り越える事は不可能な壁の所迄追い詰められて全員射殺されたという場所があります。この壁は現在世界中の共産主義者/社会主義者/理想主義者が花を捧げにやってくる巡礼の地と化しており、この日も多くの花が添えられておりました。

しかし前回と同じく結局ジム・モリソンのお墓は見つけられずじまい。

本当に「メーク・ドラマ」なエピソード満載で、墓地というよりもむしろ博物館、もしくは「一冊の本」といっても差し支えないであろうここペール・ラシューズ墓地を後にしたのは午後6時即ち閉園ギリギリの時間。そのままホテルに一旦戻るとなんとエレベーター故障中!六階(注: とは言ってもこちらでは一階はGrand Floorなので日本流に言うと七階)の部屋迄螺旋階段を歩いて上がって行きました。一日中歩いた後だったので膝が言う事を聞いてくれずしんどかったです。それでもシャワーをサクッと浴び、ちょっとチルチルしてまたくだんのカフェに足をしげしげと足を運ぶのでした。

カフェに着くとどうやら奥の方に人集りが!「もしや」と思い店内へ….

横に長くくっつけられたテーブルの奥の真ん中に見た事の或るロマンス・グレーの髪が!そのすぐ近くにあるバー・カウンターに半身でよりかかり赤ワインをオーダーし凝視してみると!

胸の奥からレッドホットな「何か」が込み上げてきました。2005年9月現在健在の芸術家の中で一番、本当に世界で一番逢ってみたかった人がそこにいるのです!南米チリ生まれのロシア系ユダヤ人。旧大陸&新大陸を点々とした後(1960年に仏蘭西のパントマイム師、マルセル・マルソーと一緒に来日している)、60年代に「エル・トポ」という名作を世に出しました。チャクラが蛤のやふに閉じきっている批評家には酷評されながらもジョン・レノンを始め理解ある一部の人々からはこの作品狂信的に支持されたのです。にもかかわらず絶対に芸術をないがしろにしないその姿勢が結局映像作家としての彼のキャリアのとって致命的なダメージとなり映画業界に不当としか言いようのない扱いを受けた挙句、今では巴里で隠遁生活を送っている - そんな波乱の人生を歩み、世界中を難破船のようにたゆたえてきたアレッハンドロ・ホドロフスキー老師がいま僕の眼前に!

芸術作品において「完成度」の追求がどれほど無意味な事か、いや、ちょっと違いますね。本来作品の中で目指すべきは「手法的完成度」ではなく「精神的完成度」であり、その為にはルールなどというイデア自体お話にならないぐらいナンセンスなものだという事を僕に作品を通じて悟らせてくれた人なのです。

長テーブルの真ん中に鎮座して終始にこやかに世界中より僕の様に彼を訪ねてはるばるやってきた人達にタロット・カードを通じてお導きの福音を宣っているホドロフスキー老師のその姿は正に「最後の晩餐」におけるイエス・キリストを彷彿させました。本当に「後光」が見えましたよ。

タロット占いの間、ずっとカウンターで様子を見ていました。途中からやってきたChrisは「日本からはるばる来たんだって言ってやってもらえば」と言ってましたが僕は「いや、今回はいいんだ」といって淡々とワインを飲み続けました。仕事柄所謂有名人に逢う機会は多い方だと思うのですが、何を隠そう僕はこういうセレブな方々に話しかけたりサインをもらったり一緒に写真を撮ってもらうという事が本当に苦手というかあまり好きではないのです。同じ人間のレベルでコミュニケートしていないような気がするんですよね、跪いているというか。だからどんな人にも取材とかで逢うよりパブとかバーでとかパーティーで偶然逢って自然に話しかけるっていうのが僕的には最も理想的な平等な地平線に立った人間同士のコミュニケーションのスタイルなのです。

しかしタロット占いを終えてホドロフスキー老師が立ち上がりその場を去ろうとした瞬間、僕の中の何かが「今彼に話しかけなかったら一生後悔する!」と囁いたのです。そうなると考えるより先に足が動いていましたね〜;

Ken: Excuse me. Do you mind awfully if I had a photograph taken with you?
Jodo: (smiles) Okay, okay.

なんで「写真」だったのかは自分にも判りませんがとりあえずミーハーなツーショット撮影には成功しました。少し急いでいる様だったので本当に一言二言言葉を交わして終わったこの刹那な出会い....

昭和80年9月7日木曜日は僕がこよなく愛する二人の芸術家 - オスカアとアレッハンドロ - と霊界&現世にて交流出来た記念すべき一日となりました。

明日8日金曜日は今回の旅で恋に落ちた街、音楽の都ウィーン再訪也!

●西方見聞録其乃壱拾四: 桐野美耶子の晩夏 第二回 - 'What became of the likely lad?'

September 03, 2005

今回は英語&日本語のバイリンガルでお送りします。
(役 彩斗氏による日本語訳が後半にあります)

I've got one funny sweet little tale that I'd like to share with you.

A couple of days ago I went to an Irish pub near King's Cross called 'Filthy MacNasty' with my friend who used to frequent the premises in question. Although from the outside it does look like any old dodgy Irish pub one finds at any old corner of the globe, it was a special place for we had a rather good reason, even if the reason was a little bit on the touristy/trendy side, to go there.

This pub used be run by an ex-member of an Irish band called Pogues - they were quite big in the 80's - and as such, a lot of indie rock bands used to play there every weekend and naturally gravitated many an unsigned musician. One of the geezars whom she used to see a lot at Filthy MacNasty was this lad called Pete. Pete was also a musician; very skinny and tall with big brown eyes. A very nice boy he was, a likely lad one might say, and she used to talk to him a lot especially when they were both sauced which was, of course, their usual state but him in particular. They often bump into each other at the local laundrette as well.

When the guy from Pogues decided to sell the business altogether and the management changed about 3, 4 years ago, a lot of the regulars stopped going there and the cool atmosphere was to be found there no longer. Many a moon had passed by and her visit to the Filthy MacNasty eventually became exceedingly erratic. The boy also ceased coming to the laundrette for some mysterious reasons.

Then we were sitting at a country pub just outside London quite literally a few days ago, the person next to us was reading the Sun (the most popular gutter paper in the UK owned by that despicable Aussie). My friend had a quick glance at the paper and therein she took a certain notice of one of the photos. She cried;
'I know this boy!'
The guy and I both started at her voice.
It turned out it was that nice boy named Pete being photographed with Kate Moss.
'Is he famous?'
She asked both of us innocently. We looked at each other and finally I uttered;
'Which planet have you been living on in the past couple of years?'.

That's why we had to go to Filthy MacNasty, have a pint of Guinness and toast to the magic and mysteries of life!

So I hope the magic and mysteries of your life are finding you well!

Ken

ps. The attached is a self-portrait of moi taken in the bogs of Filthy MacNasty. As you can see, my religious faith is never absent even in the state of total drunkenness (or perhaps even more present, I don't know)

日本語訳 by 役 彩斗

私には、あなたと共有したいと思う1個のおかしい甘い物語がほとんどありません。

2、3日前に、私は以前はよく問題の構内によく行っていた友人と共に'汚らわしいMacNasty'と呼ばれるキングのCrossの近くのアイリッシュ・パブに行きました。 外部から似ていますが、私たちにはかなり十分な理由があって、どんな古い巧妙なアイリッシュ・パブ1も、どんな古い角でも地球では、それが特別な場所であったのがわかります、理由がそこに行くためにほんの少し少しtouristy/トレンディーであったとしても。

アイルランドのバンドの元のメンバーによって呼ばれた走行がポーグであったなら使用されるこのパブ--彼らは80年代でかなり大きく、そういうものとして、多くの独立プロロックバンドがいつも週末、自然に多く引き寄せられるプレーに無記名のミュージシャンを使用しました。 彼女が以前はFilthy MacNastyでよく大いに見ていたgeezarsの1つはピートと呼ばれるこの若者でした。 また、ピートはミュージシャンでした; 大きい茶色の目で非常に痩せぎすであって、高いです。 彼が非常に親切な少年であった、ありそうな若者1は言うかもしれなくて、特にそれらがともに味付けされたとき、彼女は以前は彼とよく大いに話していました(もちろん特にそれらの普通の状態にもかかわらず、彼でした)。 彼らはまた、地方のlaundretteでしばしば互いにばったり出会います。

ポーグからの奴が、全体でビジネスを販売すると決めて、管理が4年前に3時頃に変化したとき、そこに行くのが止められた多くのレギュラーとクールな雰囲気はもうそこで見つけられることになっていませんでした。 多くの1つの月が通り過ぎました、そして、Filthy MacNastyへの彼女の訪問は結局、きわめて不安定になりました。 また、少年は、いくつかの神秘的な理由でlaundretteに来るのをやめました。

次に、私たちは全く文字通り数日前にロンドンのすぐ外で国のパブに座っていました、と私たちの横の人が太陽(その卑劣なオーストラリア人によって所有されていたイギリスで最もポピュラーな溝の紙)を読んでいました。 私の友人は紙に軽い一瞥を持っていました、そして、そこに、彼女は写真の1つのある注意を払いました。 彼女は泣きました;
'私はこの少年を知っています!'
奴と私は彼女の声でともに始めました。
それがケイト・モスと共に写真を撮られているピートというその親切な少年であることは判明しました。
'彼は有名ですか?'
彼女は無邪気に両方を私たちに尋ねました。 私たちは、互いと最終的に私で発声されているように見えました;
'どの惑星に、あなたが過去2、3年間で生きるのであるので、いますか?'

それは私たちがFilthy MacNastyに行って、ギネスの1パイントを持って、人生の魔法と神秘に乾杯しなければならなかった理由です!

したがって、あなたの人生の魔法と神秘が上手にあなたを見つけていることを願っています!

ケン

ps。 付属はFilthy MacNastyの沼沢地で取られたmoiの自画像です。 お分かりのように、私の宗教信仰は総酩酊の状態でさえ決して欠けていません。(恐らくさらに存在していて、私は知りません)

●西方見聞録其乃壱拾参: 桐野美耶子の晩夏 第一回 - '博愛'より'偏愛'

August 31, 2005

4泊5日滞在したPRIMA HOTEL (11 Csengery u., VII , Budapest / www.hotels.hu/prima) からブダペスト国際空港への道のりは目に映る景色全てがアウトライン化して全てが実態のないような、しかしそれでいて歴史の重さは確実に存在している - 街の中心地から空港までの足代が340フォリント(約188円)という実態の極めて希薄な貨幣価値がその代償となる道中のイメージそのものを空っぽにしてしまったのか、だとすれば僕の魂は自分の思っている以上に拝金主義に汚染されていることになります。

89年に所謂「自由」を勝ち取ったとされる東欧諸国ですが、我々の存在自体の「目的」が空欄である限りそれは自由という名の座敷牢にすぎないというのはポスト実存主義の21世紀を生きる我々には分かり切った事実なのでは。そんな不安満載の僕たち・わたしたちの存在に最もお手軽に「目的」を与えてくれるのが「価値観のバリュー・セット」こと「宗教」。そして直接生命に危機感を与えるという類の貧困とはほぼ無縁の生活を送っている21世紀の所謂「先進国」におけるもっともポップな宗教といえばCapitalism、資本主義でございます。ルネッサンス期、最も優れたクリエイター達は教会の庇護の元、一般大衆の神への畏怖の念を焚きつける宗教画を描きまくって生計を立てておりました。同じく今日最も優れたクリエイター達(or 狡猾な人達?)は広告代理店で大企業の庇護の元、一般大衆の購買意欲をひたすら焚きつけるクリエイティヴな宣伝やキャッチ・コピーを昼夜創り続けております。両者人々の不安を利用するという共通点を持つわけで結論:

"イツノ世モ人々ノ不安ハ換金可也"

で2005年8月現在そんな資本主義の究極の形を体現しているグロい街といえば空前の好景気に湧いているバブリーな桐野美耶子嬢。僕の人生に最も大きな影響を与えた、かつて人類史上最大規模だった世界帝国の首都にほぼ6年ぶりに戻って参りました。ブダペスト-倫敦間のフライトは遅延するわその間激しい偏頭痛に襲われるわで散々でした。しかも例のテロの直後でもあり更に過去個人的にも諸々のトラブルに苛まれた事もありで入国審査はかなりの困難が予想されました。「もし忌みグレでトラブりそうだったら直ぐに仏蘭西に行こう!」と決心していた僕。そんな米国と並んで世界で最も厳しくタチの悪い英国のImmigration Officerとのやりとりは以下の通り;

(パスポートを念入りにチェックした後)
I.O.: What is your purpose of visiting the UK?
Ken: Sightseeing.
I.O.: How long do you intend to stay here?
Ken: Two weeks.
(Bang!)

でおしまい(所要時間約15秒)。6ヶ月滞在可の観光ヴィザをいただき約15年ぶりに降り立ったGatwick国際空港。そのままThemesLinkという電車に飛び乗って倫敦市中のKings Cross駅へ直行。そこで見た風景は......

僕がこの地球上で最も愛している造形物であり倫敦の風景には絶対に欠かすことが出来ない筈のRoutemaster(旧式二階建バス)が何処にも見あたらない!

2012年オリンピック誘致の為バリアフリー都市計画を推し進めていた倫敦では車椅子の人が乗れない旧式二階建てバスはどんどん姿を消していきました。これらバスはスエズ運河を越えてインドのムンバイ等で第二の人生を送るらしいのです。それはそれでバス自身にとってはある意味幸せな余生を送ることなのかもしれません。しかし!様式美を重んじる者として言わせていただければこれはCultural Genocide(文化の大虐殺)に他ならないのでは。「自分はあの愛おしいバスに乗った最後の世代なのだ」という寂しさを体全体で感じながら倫敦の滞在が幕を上げたのです。

「詐欺!」と叫びたくなるような夏とは思えない許しがたきひんやりとした空気にも、その寒さでカチカチに乾燥している犬の糞だらけの歩道にも、その歩道に蔓延する魚とジャガイモを揚げているだけで決してグルメチックとは言えないレストラン発の香りにも、そんな油の香りが立ちこめるあらゆる様式が混在したハチャメチャな街の風景にも、その風景の中で目にする「ギリギリな」人達にも、そんな「ギリギリな」人達が飲んでいる生ぬるいビールにも、僕にとってそこには概知の価値観を超越した「愛おしさ」があるのです。トレンディなボキャを引用すれば「フェチ」なのかもしれませんが、そんな俗悪な言葉でこの抑えようがない気分の高揚をまとめる事は一耽美主義者として「拒絶」致します。

「'博愛'より'偏愛'」に重きを置いている僕 - 声を大にして一言:

世界で一番だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい好きな街!

(ふぅ〜)

はい、失礼致しました。

因にこの真ん中の家は僕がかつて住んでいて、こよなく愛したお家です。場所はAngel, Islington N1

正に純然たるエネルギーの浪費に等しいこの'偏愛'、しかしその「偏愛」の中にこそ我々の存在「目的」の空欄を埋めるヒントが隠されているのではという予感が致します。

つづく

●西方見聞録其乃壱拾弐: It's always better on holidays

August 22, 2005

8月12日早朝、後ろ髪を引かれる思いで後にした音楽の都ウィーン。万感の思いを込めて電車はハンガリー国境へと向かう訳ですがこの日はバリ混みで席の予約も出来ずウィーン-豚ペスト間立ちっぱなし。しかも朝から偏頭痛にも襲われロマンとペーソスに浸る暇すらない大変な旅。

しかし旧オーストリア-ハンガリー・ツイン・エムパイアのもう一つの帝都、豚ペストへはほぼ予定通り昼過ぎに到着。ここから宿探し等々始める訳ですが全く基礎知識もないまま結局ガイドブックも携えずにやって来てしまった僕、右も左も判らす町中駆けずり回った挙句やっと一泊一万フォリント(約5,526円)というそこそこリーズナブルな(っつ〜か日本の感覚からしたらかなり安い)個室で場所も街の中心地というホテルをゲット。因に何故この日電車を始めホテル等ゲキ混みだったかといいますと実はこの一週間ハンガリー版フジロック若しくはグラストンベリーとでも言うべき夏の風物詩、Sziget Festivalという野外フェスが行われていたからなんです。会場は苗場やグラストンベリーと違い豚ペスト市内を走るドナウ川の中州の島。街の繁華街からは電車で15分程度という素晴らしいアクセスの場所なのですが、その代償として市内の安ホテルは皆満員。アウトドア・サバイバル系が元来苦手な僕的には喜んでいいのやら悲しんでいいのやらと行った状況でした。僕の到着した夜は大好きなBasement Jaxxがプレイするという事で行きたかったのですが(因にその前の晩のトリはUnderworld)、疲労困憊しきっていたのと偏頭痛で完全にKO。

結局Sziget Festivalに行けたのは14日日曜日。一日券は5,000フォリント(約2,763円)、フジロックの一日券16,000円と比べて五分の一以下(しかも苗場と違って足代も殆どゼロ)、一週間の通し券でも25,000フォリント(約13,815円)とフジロックの一日券より安いんですよ〜(因に豚ペストの食事&公共交通機関代はせいぜい東京の三分の一程度)。美味いビールが安く、しかも大人だましなB級エンターテインメントも満載のこのフェス、雰囲気も基本的にはピースで知らない人とでも気軽に声を掛け合ったりなかなか素敵なヴァイブでした。しかしこの日はFrantz Ferdinandがメインステージのトリだったせいか、Sziget Festivalが史上最高の6万人を超える入場者を記録したせいか、健全なヤングの夏の風物詩である違法薬物乱用のせいか、Franz Ferdinandというバンド名がオーストリア-ハンガリー帝国民の心の琴線に触れる名前だったせいか、或は単純にハンガリー民族がアルコールを心の拠り所としている人々のせいか観客は生命の危険を感じるくらいのテンションで盛り上がりアリーナはビールの雨及びダイヴ&ボデーサーフィンの嵐。なにしろ体重150kgはあろうかという恰幅の良い欧州人の方々が頭の上に降ってくる訳ですから自分の首の骨が折られないように気をつけつつFranzのコンサート、エンジョイさせていただきました。しかしそんな命がけの体験を通じて東欧スラブ民族特有の人生に対する自己破壊的(=事故は快適?)情熱を垣間見るという貴重な経験をさせていただきましたです(とかなんとか言いつつハンガリー人のルーツって厳密にはモンゴル系でスラブ系ではないらしいのですが、繁殖力旺盛なスラブ民族との混血が進んだ結果、ハンガリアンのデフォルト設定は金髪碧眼。言語等を除いて身体的特徴はすっかりコーカサス民族化してしまっております)。

結局豚ペストは4泊5日滞在したのですが、頭痛が酷くて有名な豚城以外はろくに観光らしい事は一切致しませんでした。しかし街はいい感じで「天然」なレトロ&ポンコツ美をたたえていて結構ツボに入りました。特にちんちん電車と駅の構内に多々ある不可解な商店の数々の魅力は説明不可!最高!

「天然」といえば泊まっていたホテルのオーナーがなかなか面白い近代ハンガリー大衆音楽史の珍エピソードを教えてくれました。去る1970年代 - まだ社会主義体制真っ盛りで西側からの情報がかなり制限されていた時期 - 正に「奇跡的」としか言いようがないルートを経て、とある極東亜細亜の歌謡曲がハンガリーで大ヒットしたんだそうです。

それはなななんと「ブルーライトよこはま from いしだあゆみ」!

町の明かりがとてもきれいね よこはま〜 ブルーライトよこはま〜♪

なにげに食い合わせが悪く無さげな「いしだあゆみ」と「ハンガリー」。この話を聞いてまたちょっと豚ペストが好きになりました。話は若干ずれますが個人的にはクレイジー・ケン・バンドの"レッドライトよこはま"という曲も素敵だなって思います。

Sziget FestivalでFranz Ferdinandがプレイした中にJacquelineという曲がありまして、この一節が実に僕の人生の「あの瞬間」を完璧に代弁してくれたような気が致しました;

It's always better on holiday
So much better on holiday
(ホリディって最高!普段より全然ホリディって楽しいじゃん)

That's why we only work when
We need the money
(だから僕らみんな金が必要な時だけ働くんだよ)

I'm so drunk
I don't mind if you kill me
(もうべろんべろんに酔っぱらってる/もし今殺されたって全然平気さ)

てな訳で次は僕の第二の故郷であり、僕をこんなふうにした張本人であり、地球上で何処よりも何処よりも間違いなく一番心を捧げ、憎んでいる街、倫敦で御座います。

●西方見聞録其乃壱拾壱: ウィーン・モン・アムール

August 14, 2005

8月7日日曜日、伊太利亜よりスロバキア経由といふ波瀾万丈の道中を経てやってきたのが音楽の都ウィーン(因にこの日はイレブン・オクロック・ビール in 伊太利亜、アフタヌーン・ビール in スロバキア & エブニング・ビール in オーストリアと一日に三ヶ国にて地ビールを飲むという偉業(?)も達成!)。ウィーン南駅から慣れない地下鉄を乗り継いでお友達のBabsiとChristophに逢えたのは夜の10時という結構良い時間。そのままスーツケースを引きずってハプスブルグ王朝時代の栄華を今に伝えるような建物の地下にある居酒屋へ直行しいきなり地ビールで乾杯という幸先の良いスタート。

翌8日月曜日は近くのカフェにて久しぶりにメエルをチェックし、午後にBabsiちゃんと合流。マリア・テレジアの巨大な銅像が鎮座するハプスブルグ王宮等「ザ・ウィーン」な場所を散策した後、オーストリアの人々が夏に好んで飲むというWeisser Spritzerという白ワインとスパークリング・ウォーターをミックスした飲物をたしなむ。最初は「え"?」と思いましたが飲んでみるとウィーンの夏の夕まずめ時に実に合うんですね、これが。

その後ウィーン市庁舎前広場で音楽を聴きながら屋台でオーストリア伝統料理を食しました。オーストリア料理の味付けって僕的には子供の頃に母親に連れて行ってもらった帝国ホテルやホテル・オークラとかの「高級洋食レストラン」の味付けに近い「懐かしい」味なんです。多分明治時代の日本の洋食シェフってオーストリア・ハンガリー帝国料理に仏蘭西料理と同じ位影響を受けていたのではないでしょうか。(僕は偏食主義者なので食べられませんが)カツレツやビーフ・ストロガノフ/ハヤシライス等々「J-洋食」の原点を見つけたような気すらします。カツレツの語源は仏蘭西語ですが日本における調理法&味付けは絶対仏蘭西よりオーストリアに近いと思います。

しかもこの晩は地下鉄の駅でBabsiが数年間音信不通だったというお友達Annaとばったり出会うという素敵な運命のおまけ付き。

翌9日長崎原爆記念日は20世紀初頭のアートシーンに原爆を投下したと言っても過言ではないウィーン分離派の殿堂、そのものズバリのSecession Museumに行きました。午後2時半くらいだったと思いますが、Weisser Spritzer = Wiser Spiritという訳でBabsiも僕も酒気帯びまくりで長さ30メートルを超えるクリムトの壁絵を観ていたら、その前にマーケットにてゲットした木樽で漬けられたサワークラウト(ドイツ版キャベツの漬け物)の漬け汁が壁絵と同じ部屋に展示してあるクリムトのオリジナル・スケッチの上にポタポタ!係員の目を盗みトイレからトイレット・ペーパーを盗って来て慌てて拭き拭き。とりあえず事無きを得ましたが、クリムトの魂がこれを一部始終観ていたとしたら自分のスケッチが21世紀にサワークラウト漬け汁でリミックスされたという事実を結構喜ぶのではないかと思いますけど、皆様はどう思われます?この日はこのネタで二人でゲラゲラ笑いっ放し。

その後カフェやバーを何軒もハシゴし、その間にChristophが合流&離脱、そして前の晩に逢ったAnnaちゃんが合流。最後には売春宿をそのままクラブにしたというとってもファンシィでラヴリィなTanzcafe Jenseitsという場所に行きました。そこのDJは「オーストリアの演歌」としか形容しがたいキッチュなSchlagerという音楽とマンボ、単語もといタンゴをミックスするという正に'100% Uncool!'な選曲。お客さんが皆異様にフレンドリーで最後は全員輪になってダンシング・オールナイト!

翌10日は予想通り怒濤の二日酔い。でもBabsiと待ち合わせていたので血中アルコール度が依然高すぎる我が身に鞭を打って30分遅れで待ち合わせ場所Museum Quarterに到着。最初はLeopord Museumでエゴン・シーレの常設展を観に行く予定だったのですが、この嘔吐感とシーレの絵がとても食い合わせが良いとは思えなかったので(クリムトの時のように嘔吐にてシーレの作品をリミックスというパターンもありだったかもしれませんが...)急遽予定を変更しヒーリング度がより高い水族館へ。この水族館、変わっているのがその建物 - 元ナチスの要塞で戦後壊される予定だったのですが、厚さ6メートルを超えるコンクリートと鋼鉄による頑強な建物で原爆を持ってしても破壊出来ないらしく、結局建物そのものをリサイクルするという事となり水族館になったとのこと也。ともあれ可愛いお魚や海亀をみていたら体調はすっかり回復。

この晩はAnnaをはじめ他2名を招集して皆でクラビング!という事となりウィーン市の中心に位置するドナウ運河のほとりにある大きなクラブで行われているLondon Callingというパーレーへ。音楽はその名の通り身もフタもない'ROCK'。酩酊&XXXXの為あまり詳しくは憶えていませんがThe LibertinesのCan't stand me nowがドロップされていました。後半はずっと運河の畔に座って皆でお話に興じておりました。

そして木曜日、連日ダンシング・オールナイトなのでこの日は遅めの午後3時にAnnaとBabsiとMuseum Quarterで待ち合わせて60年代のウィーン・アクショニズム回願展へ。Damien Hurst顔負けの強烈な表現に好き嫌いを超越して呆然としてしまった、という事はきっと良質のアートだったのでしょう。でも60年代の時点であそこまでやり尽くされていたら今アヴァンギャルドなパフォーマンス・アートで出来る事って残っているのかな、とすら思いました。西方見聞録其乃参で言及した劇'Je suis sang'もこれに比べたらインパクトの度合いで言えば幼稚園の御遊戯会程度です。という訳で美術館で散々ちんちんを観た後は御口直しに皆で可愛い真っ赤なちんちん電車に乗ってウィーン市内観光。その晩はChristophの家に行ってAnnaとBabsiと僕の3人(Christoph自身は早々と御就寝)で朝迄アートから哲学、スピリチュアリティに至るまで語り明かしました。その結論は

'御便所こそが真の懺悔室であり教会であり寺院である'

そして殆ど一睡もせず迎えた12日金曜日の朝、ウィーンとのお別れの時も文字通り秒読み段階に。あまりにも楽しい時間を過ごしたせいかこんなに出発が辛かったのは初めてでした(ていうか正直移住したい位この街とその人々に恋に落ちました)。しかし前進あるのみ!という事でウィーン東駅にてBabsiちゃんとお別れしてブダペスト行きの電車に乗りました。満席で坐れなかった事もあり、電車がウィーンを遠のいていくように徹夜でもうろうとしていた意識も遠のいていきました......

●西方見聞録其乃壱拾: 宴の後

話は少し前後しますが、7月アヴィニョンにいたときにIrmin師に'サディズム'という言葉の語源にもなっているあのサド公爵がかつて住んでいたお城のあるLa Costeという村に連れて行ってもらいました。

お城自体はご覧の通り現在は廃墟と化しております。それなりに名所ではあるのですが非常にアクセスが悪く、車が無くては来られません。しかもこのお城、今では巴里のファッション・ブランドがファッション・ショーを行ったりしていてカルト&クールな位置付けに収まりつつあるという悲哀....

この廃墟と化した場所で200年以上前に「悪徳の栄え」や「ソドム百二十日」に描かれているようなある種求道的でさえある酒池肉林が展開していたのかと思うと正に

夏草や 兵共が 夢の後

その後はお城のすぐ近くにあるCafe de Sadeという場所でIrminと一緒にPasitisを飲みながらゆっくりと時間の流れるプロヴァンス地方の午後を満喫いたしました。

●西方見聞録其乃九: 因果鉄道の夜

August 13, 2005

あての無い放浪にはえてして摩訶不思議な事が起こるものですが、伊太利亜からオーストリアへの移動はパラレル・ワールドに迷い込んだような「トワイライト・ゾーン」的トリップ感満載の素敵な旅でございました。

「全ての繁栄には必ず終わりが来る」という訳で伊太利亜におけるワイルドな宴が終焉を迎えた8月7日日曜日の朝。Leccoの駅でマルコと抱擁し11月に花の大東京で再会する事を約束して別れ電車は出発しました。車内でフライトの内容を確認すると;

Tax receipt
Confirmation number: 1565274
Receipt and Itinerary as of 03.08.2005 13:24:32
You will need to provide this confirmation number and your passport/photo I.D. and valid visas (where applicable) at check-in to receive your boarding card.

ITINERARY:
FROM/TO FLIGHT DAY DEPARTURE ARRIVAL
Milan - Orio Al Serio / Bratislava 367 07.08.2005 07.08.2005 15:15:00 07.08.2005 16:35:00
Passenger(s) Charge Description Original Amount Amount
NISHIKAWA, KEN AIR - - SKY9 133 EUR 133 EUR
TAX - Insurance 2 EUR 2 EUR
TAX - Baggage Tax 2.12 EUR 2.12 EUR
TAX - Service Fee 5 EUR 5 EUR
TAX - Departure Tax 7.42 EUR 7.42 EUR
TAX - Security 1.81 EUR 1.81 EUR
TAX - Fuel Surcharge 9 EUR 9 EUR

Reservation totals: Air fare 133 EUR
Tax 27.35 EUR
Special Service 0 EUR
TOTAL CHARGES 160.35 EUR

******

「ミラノのOrio Al Serio空港から"ウィーン"のBratislava空港へのフライトか」と漠然と考えつつ空港のチェックイン・カウンターに行くとSky Europe社の女性が僕のパスポートを見て「ヴィザが本当に必要ないか確かめましたか?」。日本において海外渡航が自由になって以来、3ヶ月以内の滞在であれば"オーストリア"はヴィザは必要ない筈だと頑に信じていた僕は「要らない筈ですよ」と答えそのまま機上の人に。

機内では当然英語で非常時の為のアナウンスが始まりました。その後"ドイツ語"でのアナウンスと続く訳ですがドイツ語は全く解さないにせよドイツ人の友人も数多くいるうえ、Irmin & Hidegard邸に滞在していたときにはさんざんドイツ語を耳にしていたので大体どんな響きかは解っております。この機内アナウンス、どう聴いてもドイツ語に聞こえないんです。「オーストリアのドイツ語って青森弁より訛が強いのかなぁ?」とか思いつつシートベルトを着用して因果鉄道999はパラレル・ワールドに向かって離陸。

この日は乱気流が激しく飛行中は殆どシートベルト着用サインがつきっぱなし。たどたどしい英語で的を得ない説明をする機長の機内アナウンスも逆に乗客の不安をあおるばかり。なのに予定時間より15分も早く到着というありえなさ!!!

ところが到着してみると空港のサテライトの上には紅白のオーストリアの国旗とは似ても似つかぬ若干ロシアの国旗に似た旗がたなびいているではありませんか!「もしかしたら英国のウェールズみたいにこの地域も独立運動とかさかんなのかな」と無理矢理自分を納得させ「入国審査」へ。

西方見聞録其乃八でも申し上げた通り今やEU国間ではパスポート検査等一切省略されているのですが、"オーストリア"の筈なのにこのBratislava空港の「入国審査」は執拗に厳しく、周りにはマシンガンを持った警備員が立っています。

何はともあれ特に大きな問題もなく税関も通過して空港ロビーに出てみると「文字化け」としか形容のしようがない不可解な表記だらけ。しかも全ての金額の表示が明らかにユーロではないのです(おまけにかなり寒い)。「ここはオーストリアではない!」という衝撃の事実が僕の脳にゆっくりと浸透して行きます。

しかしネットで予約した際はBratislava国際空港からウィーン市内までシャトルバスで約1時間と書いてあったのにどうしてだろうと思いツーリスト・インフォメーションで訊いてみると「おっしゃる通り。または空港からバスに乗ってBratislava駅に行き電車に乗り"国境を越えて"ウィーンに行く事もできますよ」との返答。

そう、ここは1993年に独立したばかりの隣国スロバキアの首都Bratislavaだったんですね〜。この辺の国々は皆小粒揃いというのは知っていましたがまさかスロバキアとオーストリアの首都が成田と東京より近いなんて知る由もありませんでした。てな訳で計らずして生まれて初めて元共産圏の国の土を踏んでいた僕。

チェ・ゲバラが大好きな僕にとって社会主義の国というのはある種のロマンティシズムをたたえている訳ですが駅に向かうバスの中で見る風景には'MacDonald's' や'KFC'、'IKEA(スウェーデンの家具メーカー。日本語だと「池屋」、英語だと「愛木屋」と発音)'といった西洋資本主義のアイコンがいやがおうにも目に入ってきます。

一抹の悲哀を感じつつかなりレトロな作りのBratislava駅から因果鉄道999に乗ってウィーン南駅に着いた時には日はとっぷりと暮れておりました。これから友人のBabsiに電話をしてウィーン市内のどこかで落ち合い僕の音楽の都における滞在が始まる訳でございます。

●西方見聞録其乃八: マルコを訪ねて三千里

August 08, 2005

ここはミラノから電車で約45分の所にある湖畔の街Lecco。DJの友人マルコを訪ねて仏蘭西より国境を超えてやって来た訳ですが、今は通貨もユーロに統一されて国境でのパスポート検査も割愛。確かに色々な意味で楽にはなりましたが若干旅の情緒が失われた感は否めません。

まあそんなオヤジの主観的感傷はさておき、伊太利亜、良い国です。観光で訪れるには一番好きですね〜。食べ物も美味しいし人もフレンドリィだし。

到着したのは火曜日の夜。駅の近くのバールで友人マルコと待ち合わせしてから早速バールの梯子。ミラノ中央駅で早速ビールを飲んでいたのでいい感じに酔っぱらって就寝。

翌水曜日はマルコのオフィスに行ってアヴィニョンのIrmin Schmidt師邸を出て以来初めての繋ぎ放題BBインターネット・サーフィン!体内を激しく流れるアドレナリンに自分のネット中毒ぶりを痛感。

木曜日はミラノに行ってきました。初めてではないので特に観光もせず、さりとてショッピングをするでもなくドゥオモ近辺をだらだらと散策。やはりこういう街は腰を下ろしてみないと本当の意味で「体験」は出来ませんね。

そして週末はマルコの計らいで2日連続でDJ。金曜日はLecco湖のほとりにあるサンフラワーというバール。写真でもお分かりのようにDJブースからもLecco湖、そしてスイスへと繋がっているイタリアン・アルプスが一望出来る景勝地ですが、基本的には所謂クラブではないのでややチルな選曲でした。ただこの晩は昼ワインを飲んでから夕方地酒グラッパの4ショットを経て色々な意味で「過・剰・摂・取」。

という訳で翌土曜日は生死の狭間を漂う地獄の二日酔い。この日はお昼から街の広場に或るバールでプチ野外フェス状態だった為、本来は午後の早めの時間に出演の予定でしたがマルコに頼んで少し遅めにしてもらい夕方近く迄ソファーに横になりながら伊太利亜のテレビ番組を観ておりました。(ときにこのLeccoではバー・クラブにおいて大音量で音楽を流せるのは12時迄という条例があるらしいのですが、このイベントはそれに反対する署名運動も兼ねてマルコ自身がオーガナイズしたものなんです。更に彼はBjorkの大ファンでアルバムは勿論の事、シングル迄全部買い揃えている他、Bjork主演映画'Dancer in the dark'のDVDをななななななんと4枚(!!!!)も持っています。伊太利亜人がデフォルトで'熱い'というのは定説ですがこのマルコ、そんな伊太利亜の基準からしてもア・ツ・ス・ギ。)夕方やっと自力で動けるくらいに復活してくだんのハコに向かい夕方4時半よりDJ開始。それなりに盛り上がったのですがDJしている途中いきなりこの日に出会ったイタリア人DJの方とお店のオーナーから所謂日本で言う「大ジョッキ」のビールを同時に奢って頂きました。地中海人って本当に気前が良いんですよね。ともあれなにげにマッチョな僕、奢って頂いた飲物は飲み干さなくては義理が立たん!とばかりに両方飲んで正に向かい酒状態。翌日飛行機に乗ってオーストリアへと旅立つというのに大丈夫なのか?という農耕民族的な一抹の不安も取り巻く狩猟民族的&地中海的楽観ヴァイブに払拭され「ええい、ままよ!」状態でパーレー。DJした後は多くの人に'Hey Mr. DJ!'と声をかけられて沢山の人達とお話をしました。最後の写真は生まれて初めて「一緒に写真を撮って下さい」と頼まれたレコネーゼのお嬢さん方。この晩は結局2時位迄飲んでいた訳ですが、最後は客が暴れ始めてグラスや瓶が飛び交う映画のワンシーンのようなエンディング。そんな中で僕はと言えば壊されないようにと安全な所にコンピュータを移動しているという小粒ぶり。まだまだ人生学ぶ事が多いな、と思いました。結局店員&オーナーまでこの恐るべき破壊行為に参加、万華鏡のやふなカオス絵巻が繰り広げられてゲーム・オーヴァー。最後の客が出て行って壊れたガラスが散乱し滅茶苦茶になっている店内を観ながら満面の笑顔を浮かべて'Tomorrow, hard life!'と言っていたオーナーの姿が強烈に印象に残りました。

地中海沿岸&ラテン系語国圏特有のダンディズムをチラリズムで垣間見た見た伊太利亜最後の夜。明日は音楽の都ウィーンで御座います。

●西方見聞録其乃七: サイケな夏をコートダジュールで

August 03, 2005

3週間に渡って滞在した仏蘭西ですがいよいよしばしお別れの時が迫ってまいりました。そんな訳でやってきたのが伊太利亜国境に程近いコートダジュールに位置する小さな村、Tourrettes。出かけるときにドアに鍵すらしないという非常にのどかな場所なのですがフタを開けてみると!!!

竜宮城も真っ青のパーレータウンなんですね。7月29日金曜日朝6時38分発の電車に飛び乗り仏蘭西西端のピレネー山脈より約9時間電車に揺られ最寄りの駅Cagnes(丁度カンヌとニースの中間にある街)に降り立ちました。そこで4年ぶりに再会した友人Tootsとハグハグした後、Tootsのママの車で30分かけて村にやっとこ到着したかと思いきやチルアウトする間もなくスーツケースを友人宅に置いて仮装パーティーに直行!


これも単なる仮装パーティーというのは'仮装'でその実体は完全無欠なるレイヴ。スーツケースの置いてあるTootsのパパ宅に戻れたのが翌日の夕方。その間お昼の12時より5時間のマラソンDJセッションまで行わせていただきました。因にこのセットのテーマは'Saturday Afternoon Berbecue Music'、という訳でろくに繋ぎもせずダラダラと曲をかけていただけでしたが皆様にはそれなりに喜んで頂けた模様。

その後慌ただしくかろうじてシャワーなんぞを浴びた後、お茶をしばく暇もなく車に飛び乗ってまたまた別の仮装パーレーに。この晩はさすがにエナジー残量がほぼ0%だったので夜中にTootsのママと一緒に帰りました。デフォルトで不眠症チックな僕ですがさすがにこの晩はカッツリと就寝。

翌7/30日曜日も午後からバーベキュー・パーレー。これも所謂のどかな田舎のバーベキューを想像しては大間違い!庭では4ピースのロック/レゲェ・バンドが生演奏をしながらあちらこちらから紫の煙がたちこめるという4 REALなパーレー。この晩はデンマークの人とか英語が話せるPartierの方々がいらっしゃったので結構話し込んでいたらかなりいい時間に。気付けば友人Tootsを始め一緒に来た人達は誰もいなくなっておりました。この家はかなり山の中に位置しており、来る時も車だったのですが相当出来上がっていたせいか「酔い覚まし&XXXX覚ましに歩こうか」なんて思ってふらふらと歩き始めました。真夜中に民家はおろか街頭すらない真っ暗のコートダジュールの山道を行き先もろくに判らずにひたすら歩くというこの状況、客観的に考えると危機感を覚えてもおかしくはないのでしょうが、そこは太陽も月も射手座に入っているという筋金入りの極楽トンボである僕、「なんとかなるさ」とすぐに考えて120%スリルを満喫しつつ歩いていました。

月の明かりだけを頼りに山道をしばらく歩いていると一台のシトロエンが停まりました。乗っていたのは皆20歳前後の若人。運転していたのは黒人の男の子、助手席には白人の男の子、そして後部座席には白人の女の子が乗っております。後部座席の女の子がいきなり英語で;

Girl: Where are you going?
Me: Good question. Donno, really.
I think I want to go to the town centre.
You know, where the bars are.
Girl: Do you mean Tourrettes?
Me: I don't really remember the name. I think so.
Girl: We're going there as well. We'll take you there.
Me: Really? That's most kind of you. Thank you!

そんなこんなで見知らぬ方々に車で村まで送り届けていただきました。車中では女の子と会話していたのですが、当時も今も夢の中の出来事の様で本当に実感が湧きません。Tourrettes到着後丁重に御礼をして恐らく別のパーレーへ向かう途中であろうと思われる3人のフランス人の若人の方々と別れた後、村の広場に歩いて行くと日曜日の真夜中だというのに老いも若きもビールを飲んだりハッパを吸ったりしながら生のジャズバンドの演奏を聴き入っております。はるばるアフリカから地中海を超えて渡って来た微風が石灰質の大地を優しく愛撫する心地よい南仏の夏の夜 - 「地獄も天国もこの地上に共存している」という言葉がこれほど体の細胞の一つ一つに至るまで実感出来た瞬間はありませんでした。

ほんと、生きてて良かった!

翌月曜日は村人も日常の生活に戻り、田舎の静けさが戻ってくるかと思いきや昼休みに友人のTootsが「これから川に泳ぎに行く!」と。かくして125CCのYAMAHAのバイクに飛び乗って二人で川へと向かいました。青空の下、眼下に急な谷間が広がる南仏の道を昼下がりにバイク二人乗り - 笑ってしまうくらいに映画のワンシーンのような状況。川に着くとパーレーで逢った顔見知りの人が7, 8人いて皆でフレンチ・アルプス山頂の雪溶け水というこの世のものとは思えない程冷たい水の中にダイヴしたりして遊びました。これだけ水が冷たいと水中にいる時は全く別次元の世界に迷い込んでいるような気分になります(あとプチ生命の危険を感じました....)。

その晩は仏蘭西で過ごす最後の夜。食事をしながらTootsと話をしていたらななななななんと!この村には20年ほど前、僕がフェリーニよりキューブリックより小津よりも敬愛する異端映像の魔術師、ホドロフスキー老師が住んでいたそうな。しかもTootsの彼女のお婆ちゃんが当時の彼の妾だったと聞いて更に仰天!今は巴里で隠遁生活をしながらとあるバーでタロット占いをしているという噂のホドロフスキー。その真相を尋ねたらあっさり「うん。僕3回タロット占ってもらったよ」という返答!其の場所は巴里のリヨン駅に程近いBouleverd Daumesnilといふ通りにあるCafe le Temeraire。毎週水曜日にそこへ行くと整理券がもらえるそうです。一日20人で打ち止めとの事なので朝7時くらいには行っていた方がよいそうな。一切金銭は受け取らないそうですが、一ヶ月後自分の状況を手紙に書いてホドロフスキー老師に送る、というのが唯一の条件だそうです。

といふ訳で9月に花の都に戻った暁には'絶対'逝きます。

ホドロフスキー先生が僕の友人Tootsに対して宣った御言葉;

ある晩、師匠が無言で月を指差した。

未熟な弟子たちは師匠の指を見、そして賢い弟子たちは月を見た。

そんな訳で明日からは国自体が博物館状態の魅惑の国、伊太利亜です。

追伸:20歳未満の方がいらっしゃるのでEXPLICITな表現は自粛致しますが、上記の間ほぼずっと「瞳孔チューリップ」状態でした、ええ。

●西方見聞録其乃六: The Red Rabbit Revolution - 赤兎革命

August 01, 2005

仏蘭西(ふらんす)の陸奥(みちのく)、といっても差し支えのない僻地、ピレネー山脈の谷間にあるUssat-les-bainsという村へはるばるとやってまいりました。所謂マクドナルドのようなお店がある最寄りの都市はトゥルースになりますが、そこから電車で一時間強揺られてから更に車で30分以上かかります。恐らくフランス国内で首都巴里から最もアクセス時間のかかる場所の一つでしょう。

何故このような場所にやって来たかといいますとDanielという倫敦時代の友人が住んでいるからなのです。その体の中に脈々と流れるユダヤの血がなせる技なのか、文字通り旧世界の大陸を流れ流れてこの村に「漂流」してきた彼、世間的に言えば僕の「大親友」なのですが、この日本語の「親友」という言葉程人々に凌辱されてきたボキャはないと思いますので彼と僕の不思議な関係を僕なりに再定義致しますと「人生でこれまで巡り会った多くの素晴らしい人々の中で最良のブレインストーミング・パートナーの一人」とでもなりましょうか。故に毎晩明け方まで語り明かした一週間といった感じでした。この写真はカフェで食事をしながら非常に形而上学的討論をしている最中の姿です。

またこの一週間は非常にクリエイティウ゛なひとときでもありまして’The Mystery of the Great White Worm (邦題: 巨大白ミミズの謎)’というタイトルの10分強のサイレント短編映画まで一緒に作りました。セピアっぽい白黒の写真がその映画のワンカットのスチルで左がDaniel扮する探検家、右が僕扮する巨大白ミミズです。童話のような展開ながら非常に哲学的なテーマでなかなか面白いですよ。

そして次の写真はMr. Diagonal(”ミスター対角線”=Daniel君のステージ名)が今年の冬にブルッセルで上演する戯曲、”The Red Rabbit Revolution”のポスター。これも僕が作りました。バックはユーロ・ディズニーランドのシンデレラ城です。僕がこよなく尊敬するアレッハンドロ・ホドロフスキー老師をして、「現代世界の諸悪の根源」と言わしめた悪の帝国ディズニーの暴君ミッキーマウスに征服されている地球を宇宙の彼方からやってきたレッド・ラビットが救うという「セミ・ドキュメンタリー」タッチの舞台劇です。

ユーロ・ディズニーといえばこのDaniel君は左系の有志を集めてユーロ・ディズニーランドを侵略し、ポスターにあるようにミッキーマウスを公開処刑してシンデレラ城に立て篭るという計画をかなり綿密にすすめていたそうです。結局有志たちの歩調が合わなかったのと昨今のテロ騒ぎで武装警官による警戒が厳しくなりすぎたので断念したそうですが、一応僕も「今度やるときには一声かけてね」と言っておきました。ディズニーの危険性を世間の方々に少しでも理解していただけるのであればこの命捨てても惜しくはないです。

君は人の為に死ねるか? By 杉良太郎

追伸:トゥルースといえばガトー・ショコラって画家のトゥルース・ロートレックがオリジネーターだったって皆様ご存知ですか?

●西方見聞録其乃伍: 見つかった ? ‘終わりなき時間’

July 24, 2005

ここはスペインとの国境にほど近い町、パピニョン。フランス人のお友達で一緒にJAPレーベルの運営をしているFranckの(元エール・フランスのスッチーという見目麗しい)ママと87歳なのにドファンキーで元気一杯の可愛いお婆ちゃんが住んでいます。ご覧のように連日のピーカン空、正に絵葉書のような地中海リゾート・バイブ溢れる場所です。

南仏でよく皆様が飲むのがパスティス (Pastis) と呼ばれるアルコール飲料。日本ではペルノやリカルドなんかが有名だと思いますが、実はかなり色々な種類があるのです。こちらに来てからは連日お昼前からこのパスティスをグラスに氷を浮かべて飲んでおります。

そして毎食事時は日本のお茶感覚で必ずワイン。この辺の習慣には文化というファサードの遥か彼方に流れる悠久の時を感じます。そしてその合間をぬってこのグリッター度数の高い地中海を眼下にXXXXでパッキパキになって「ま、いっか」のつぶやきつつ日没を見つめるという毎日。

見つかった
何が?
‘終わりなき時間’
それは海と手を取り合って歩き去って行く太陽….

A. Rimbaud

そんな訳でお陰さまでご覧のとおり至って元気に連日「見えないものが見え、聞こえない者が聞こえ、手で触れられないものを感じられる偉大なる病人/賢者」になるべくプチ’全感覚の論理的錯乱’を実践しておりますです、はい。

●西方見聞録其乃四: アヴィニョンの女たち

July 19, 2005

ここ数日プロヴァンス地方にあるあのドイツの伝説的バンド、CAN のIrmin Schmidt師のお宅に御邪魔しております。CANといえば僕がわざわざ語るまでもなく現代のロックはおろか音楽全般に多大なる影響を与えたあまりにも偉大なるバンド。仲の良いプロデューサー兼DJの友人KUMO a.k.a. Jono PodmoreがIrminと一緒にMasters of Confusionというユニットを組んでいる他、Irminの娘さんと結婚し実質的に親子の関係でもある為、その縁で色々仲良くさせていただいているのです。
(http://www.spoonrecords.com/)

んで去る7月17日日曜日の夜Irminと一緒に現在ストリート・シアター・フィスティヴァルの真っただ中にあるアヴィニョンへ前衛的舞台を観に行きました。アヴィニョンは12, 3世紀頃バチカンから分離した法王庁があって、この舞台はアヴィニョンの旧法王庁の中庭で行われたのでとにかく場所が凄かったです。Irminも「舞台の内容はともあれその場所を観るだけでも価値がある」と言っていました。

(http://www.fucine.com/network/fucinemute/core/index.php?url=redir.php?articleid=1239)
(http://fr.news.yahoo.com/050707/202/4hr3j.html) 。

でくだんの劇はJan Fabreの'Je suis sang (I am blood)' その内容は無修正総天然色というべきミもフタもない生まれたままの姿でBloodbath的な狂気を表現するというもの。一糸纏わぬ姿でポーズをとるダンサー達は正に「アヴィニョンの女たち」そのものです。(因にオリジナルの「アヴィニョンの女たち」はピカソが売春宿で描いたスケッチを元にかなりデフォルメ&修正(?)されて完成したものですが、法王庁があった頃のアヴィニョンには約8,000人の女郎さんがいらっしゃったそうでこれは男性市民7人当たり一人というもの凄い数字になるらしいです。正に聖俗統合された中世の城壁都市だったみたいですね〜)

「私は血」視覚的には結構面白い所も多々ありました。Irminはそこで表現されている「哲学が幼稚すぎる」という事であまりお気に召さなかった模様。その後夜中の12時過ぎ迄町の広場にある野外カフェでサクッと一杯ひっかけました。写真はその時撮ったものです。

夜中の一時過ぎても人の減る気配がないアヴィニョンの街角。南仏の夏の夜空の下で飲む冷たいビールは喉を潤した後、魂まで到達して洗浄してくれるような気がいたしました。

●西方見聞録其乃参: 現代芸術の桃源郷

July 15, 2005

革命記念日の翌日ピーカン空の下、巴里にある現代芸術の桃源郷、Centre Pompidouに行きました。御化粧直しがされていて以前見た時とは印象が若干異なっています。建立された70年代当時は時代を反映して原色を使いまくったカンディンスキーチックな印象でしたが、今回は若干色数を押さえてデザイン性の高いミレニアムな感じに仕上がっています。アートスクールとかデザイン学校では後者の方がいい点取れそうですが、個人的にはデザイナーの意図が丸見えでなんかイマイチ。以前の方が「何考えてこんなにしたんだ?」というセトギワ感があって良かったですね。

この「セトギワ感」、今の僕のテーマです。これがない自己表現には「全く」興味は持てません。自己表現するのは知的生命体として誰もが必要としている事ですし、ある意味我々全員に与えられている権利です。でもこれを「芸術家」として実践し、人からお金を盗るのであればやはりきちんと責任もってユーザーに全感覚の論理的錯乱をさせなければいけません。無意識過剰にこれを実践してはじめて生まれるかもしれないこの「セトギワ感」、判る人にしか判りにくいものですがそこで諦めていては芸術家/表現者としては進歩しません。

因にこの現代芸術のガンダーラ、ポンピドゥーセンターでD-DAY - design todayという展示を見ていたら映像ブースより聞き覚えのある声が....ふらりと入ってみるとUleshkaと遼さんのインタビューでした。二人の映像作品も展示されており、更に別の友人の作品もあったりして

「本当にここは巴里なのか?」

しかもその日の夜ホテルでテレビをつけたら東京のデザイナーの知り合いが出てるではありませんか!

「本当にここは巴里なのか?」

その後色々な事に思いを馳せながらテレビをつけっぱなしにしていたら何とBjork降臨!半分眠りかけていた脳細胞が目を覚ますようなとても啓発されるインタビューでした。

くだんのガンダーラでみた膨大な作品群の中で正直人生が変わる程素晴らしいと思ったのは約2点でした。東京におけるこの手の展示で素晴らしい作品に巡り会える確率を考えると2点というのはそれでもさすが現代芸術の桃源郷ならではの数字なのですが、そこにあるどの作品よりも感動したのはポンピドゥー土産店にあった、あのジョンレノンに「世界で一番カッコいい人物」、そしてサルトルに「20世紀で最も完成された人物」と言わしめた、反体制的に言えば「革命家」、体制的に言えば「テロリスト」(←これを同義語辞典に載せれば世界恒久平和に一歩前進すると考えるのは僕だけでしょうか?)、チェゲバラの写真をあしらった雑記帳。あの有名なチェの写真の下にこんな文句が書いてありました;

Let's be realistic. Try the impossible.

ちょっとナイキっぽいですがチェのキャラに助けられて心の中に不思議な残響音を残す言葉でした。

Bjorkのインタビューを見終わったら外は既に明るくなっています。これから少し寝てリヨン駅から南仏へと旅立ちます〜

●西方見聞録其乃弐: 革命記念日

July 14, 2005

1789年7月14日、多くの政治犯が投獄され絶対王政による圧政の象徴とされていたバスティーユ牢獄が陥落。この日はフランス革命記念日として毎年大きな祝賀祭が巴里で催されています。僕も何人かの友人とエッフェル塔の花火を一目見ようと車で向かいましたが道路が鬼のように混雑していて途中で挫折。結局遠くに上がる花火をチョロリと見ておしまい。これが僕の2005年革命記念日でした。

その後、巴里の北東にある運河のほとりのカフェで夜中の1時にディナー&ワイン。この時は知る由もなかったのですが、(恐らく第二次世界大戦、というより人類史上最大規模の地上戦が行われた場所を記念して)スターリングラードと呼ばれているこの地区、巴里で最も危険なゲットーらしくほぼ毎晩だれかが路上で射殺されたりしているそうです(そういう意味では実は言い得て妙なネ〜ミングかも)。CANのIrmin師も「僕もあそこは夜には足を踏み入れたくないね」と仰っておりました。そんな事を念頭に真夜中に平和ボケ?スマイルの記念写真を見ていただくとよりいっそう感慨深いものがあるやもしれません。

でもサブカルチャーとか繁殖していそうなエキサイティングな場所でした。もし巴里に将来移住したらこの辺に住みたいな、なんてマジに考えています。しかし新しい文化の胎児を宿す街はどこも「怒り」、「恨み」、「呪い」等々を内包した妖気に満ちていますよねぇ。純粋な藝術運動はクーラーの効いた会議室で「差別化」とか「お洒落」、「インタラクティヴ」、「判りやすく」なんて言葉が飛び交う広告代理店のマーケッティング・ストラテジー・ミーティングからは生まれてこない、という事だけは確かなのではないでしょうか。

●西方見聞録其乃壱: 花の都便り

July 13, 2005

前日ほぼ徹夜してそのまま27時間かけて花の都巴里のシャンゼリゼ通りに到着いたしました。はっきり言って生命レベルはかなり低いですが、旅行中によくある不思議なテンションの高さでバッテリー残量は0%なのに動いてる?!みたいな感じであります。

丁度20年前の今頃巴里でフランス語の学校に行っていました(Live Aidの直後でしたね〜)が、途中でドロップアウトして昼間はよくシャンゼリゼとかで暇をつぶして夜にバイトに行っていました。プチデジャヴ状態です。イヤホンしていますが聴いているのはMaximo Park & The Libertinesです。この日も20年前と同じくシャンゼリゼを意味もなく行ったり来たりしながら今も同じ所にあるFNACというフランスのCD屋さんに立ち寄ったりして「巴里の憂鬱」を楽しみました〜