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●西方見聞録其乃壱拾九: ハートの形をした街 - 混沌と共に呪われた詩人達の足跡を追って

September 29, 2005

いよいよ伯林出発となった9月19日月曜日。朝四時という普段ならまだ床にすら就いていないような時間に起床。お世話になった友人アレキサンダーと一緒に彼の小さなキッチンで最後の朝食をいただいてSchoenefeld空港へと向かいました。まだ表は真っ暗。朝というよりむしろ「真夜中」といった趣き。最後まで大丈夫だと言ったのですが結局空港のそばの駅まで一緒に来てくれたアレキサンダー。「今度絶対に作品を一緒に創ろうね!」とお約束してお別れしました。

かくして次の目的地は「欧州の首都」ブリュッセル!しかし飛行機の到着地はヨーロッパ通貨統一の舞台となった阿蘭陀の街マーストリヒト。「マーストリヒト条約」で有名な所ですね。ここからブリュッセルまでは約1時間半かかる上、出発も朝の7時15分と悪条件てんこ盛りですがそれもその筈、このチケット、なんと4ユーロ(約542円)という破格の安さ。実際は空港税や燃料税がこれに加算される(さすがに税金の価格破壊はありません)のでこれに約20ユーロ(約2,710円)程上乗せされますがそれにしてもあり得ない安さ、っていうか「絶対モト取れてないだろ!」。

なにはともあれマーストリヒトに着くと「寒っ!」。あと何気に阿蘭陀って英語表記少なくて大変。それでもなんとかバスに乗って9時過ぎにマーストリヒト駅に到着。電車の切符を買ってからブリュッセルで御世話になる予定のQuentinに電話をすると眠そうな声で「アロー?」どうやら最近亡くなったお祖父ちゃんの家に前の日の晩行って一人で一晩中大音量で古いショパンのレコードを聴きながらキャビネットにある酒をランダムに飲んでべろんべろんになっていたとの事。普段は元気一杯なのに珍しく覇気のない感じでしたがそれでも御昼過ぎにブリュッセル中央駅で待ち合わせをしました。

このクウェンティン君は西方見聞録其乃六でも言及した友人Danielを通じて知り合ったお友達。去年日本に来た時家に泊まっていたのですが結構波長が合ったんです。芸術家肌で純粋で浮世離れしていてそのくせアンガージュモンしている所なんかとてもDanielに近いものを感じます。そんなクウェンティンとブリュッセル中央駅で合流してブリュッセル旧市街をそぞろ歩き。その間小便小僧の前で2ショット!その後、前の日に引っ越したばかりというクウェンティンの新居へ。

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彼のアパルトマンはベースメントながら大きさは40平米はあろうかという一人で住むには十分過ぎる広さ。床が可愛いタイル張りで古いアップライトピアノが暖炉の横に置いてあったりします。最初家賃は80ユーロ(約10,837円)と聞いて「週で?」と聞いたら「月でだよ」!伯林も生活費&家賃は破格でしたがブリュッセルはそれを上回る安さ。4階立ての世紀末退廃デコレーション仕様の立派な庭付きお家が月1,000ユーロ(約135,468円)で借りられるんですよ!

何か家賃の話ばかりで恐縮ですが、エンゲル係数って文化(特にオーガニックなユース・カルチャー)と実はかなり密接な繋がりがあると思うんですよね。

でもここも予想通りシャワー&給湯器無し!しかもトワレは外にあるという完全な19世紀仕様。幸い彼のお祖父ちゃんのアパルトマンが徒歩3分の所にあるのでここでシャワーを浴びる事が出来るのですがそれにしてもここもボヘミア〜ン♪

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その後引っ越しをしなきゃいけないと言って出て行ったクウェンティン。その間僕はお留守番&執筆活動。一時間以上経った後、街の反対側に位置している彼が以前スクワット(違法占拠)していたというアパルトマンから途中にあったスーパーマーケットから「借りた」というショッピング・トローリーを押して戻ってきました。鍋やソファーや布団や洋服を目一杯積んだショッピング・トローリーを押して欧州の首都を片道30分以上かけて横断するクウェンティンの勇姿!シビレます。

帰って来て開口一番「警察にジロジロ見られてちょっと怖かった」そりゃそうでしょ!っつ〜か職質されなかったのはラッキーだったんぢゃなひ?。ショッピング・トローリーは「また明日も使うから」といって家の前に置きっぱなし。このトローリーが結構気に入っているようで何度もニコニコしながら指を指して”My car!”と言っていました!

この日の晩、二人で食事をしに外へ出かけると「混沌!」という叫び声が!振り向くとそこにはカフェでビールを飲んでいるフーテンな無頼漢の集団が(Quentinを"クウェンティン"と読むのは英語の発音なんですね。最初仏蘭西人に”クウェンティン”といっても”誰?"って感じの反応だったので、すかさず"こんトん"と言ったら"Ah,OK. こんトん!"とすぐ納得)。なんでもかつて混沌が在籍しておりそこそこ有名だったベルギーのバンド、Orange Kazooのメンバーの人達。みんな髪の毛も髭も伸び放題で手も顔も汚れまくり。服も「無頓着」としか言いようがないかなり「セトギワ感」溢れる方々でしたが、話をしてみると実は西方見聞録其乃四でも書いた前衛戯曲、”Je suis Sang”の作家、Jan Fabreの友達だったり結構マジでインテレクチュアルなソサエティのメンバーの方々。ビールがどんどん進んで我々が囲むテーブルの上はあっという間に空のビール・グラスで一杯に。更にその少し上空には目も口も手足すらもない新しい「生命」が空中遊泳。お店の人も表で大声で話す僕らを嫌がるどころか逆に気前よくチーズとか食べ物を次々に僕らにサービスしてくれます。"裾が霧のようになった"上着や外套を纏い、酔い潰れる寸前で理性が綱渡りする中、哲学&芸術論をカフェで闘わせるという何ともオールド・スクールで美しい貧乏芸術家&音楽家の姿 - この絶滅しつつあるベル・エポックな情景はどんな歴史的建物よりも異国観光情緒に満ち満ちております。

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欧州の街の殆ど全てがそうであったようにブリュッセルもまた中世の頃は城壁都市で今でも地図を見ると城壁がどこにあったか直ぐに判ります。街の中心部はその城壁跡内ほぼすっぽり収まってしまうのですが、この城壁が丁度ハートの形をしているのです。だから:

"ハートの形をした街"

(っていうかどっちらかといえばホームベースに近いのですが野暮な事は言いっこなしという事で)

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翌9月20日火曜日はブリュッセル市内のアール・ヌーボー建築見学。アール・ヌーボーの建物は50、60年代には人々に「醜い建物の見本」のように疎まれその多くが取り壊されているのですが、それでもブリュッセルには世界のどの都市よりもアール・ヌーボー建築が多く残っているそうです。ブリュッセルの建築物は19世紀後半から20世紀前半に建てられたものが主流ですが、この街の摩訶不思議な所は通りごとに建物が規格統一されておらず、ほぼ同じ時代に建てられたものばかりなのに建物個々のデザインや建築資材がかなり異なっているという点。これは欧州の他のいかなる都市とも違っています。仏語には「ちぐはぐな建築デザインで都市の景観を台無しにする」という意味のBruxifyという動詞まであるとか。かの仏蘭西の詩人ボードレールもブリュッセルに何年か滞在していた時期があったのですが、彼は「住民は教養がなく、臭く非衛生的で醜い街」とブリュッセルを忌み嫌っており、如何に、そしてどうして自分がブリュッセルをこれほど嫌いなのかという事を延々と書き綴った本まである程。でも僕は逆にそこに自由な空気を見い出せて好きです。ある意味伯林もかなりBruxifiedされた街でしたが、伯林の場合、戦前と戦後の建物が入り交じったりしている点でなんとなくその歴史的背景から現状の理由が見えてくるのですがブリュッセルのこの状態は本当に「天然」としか形容のしようがありません。でもやはりThe world’s most bruxified city(世界で最も天然なアーバン・ランドスケープ)の栄冠は我らが'大阪(旧姓'東洋のベニス大坂')'、次点'花の大東京'に捧げたいと僕は思います。

21日水曜日は東京でも一度逢った混沌のパパと三人でベルギー伝統料理を食べに出かけました。最も一般的なベルギーの田舎料理は牛肉をビールで何時間も煮込んだものにフライド・ポテトを付け合わせるというもの。これは偏食主義者の僕にはちょっと難しいので野菜を炒めたものにフライド・ポテトという組み合わせでベルギー・ビールと一緒に頂きました。

ブリュッセル滞在最後の日となる22日木曜日はお昼に混沌の家の近所で再びベルギー伝統料理(?)揚げたてフライド・ポテトをゲット。Mサイズの筈なのにLLと言われても納得のいく量。ベルギーではケチャップではなくマヨネーズで頂くのが主流なのでそれも頼んだらもの凄く気前良くぶっかけて頂きマヨネーズ・シチュー・ア・ラ・ポテト状態に。優に1,000Kcalはあろうかという恐るべき油の量でしたがちゃんと残さず食べました。

インターネット・カフェでメエル等をチェックした後、混沌と待ち合わせているハート形の街の真ん中に位置する目抜き通りBoulevard Anspachにある証券取引所前へ。合流した後、混沌が「観光」でヴェルレーヌがランボオを撃った場所に連れて行ってくれました。しかしいざ着いてみると本当に何の変哲もないどころかむしろ「本当にここなの?」と思える程ポエジィの感じられない都会の砂漠的風景が眼前に展開しているではありませんか。四角いその広場、真ん中にはとりあえず噴水らしきものがありますが、それを囲んでいるのは19世紀と20世紀の建物がランダムに並んでおり見事にBruxifiedされております。更に僕、ランボオに関しては伝記を何冊も読みあさっており、ヴェルレーヌの母親を含めた3人が駅に向かう途中、というか電車を待っている最中に起きた事件だったというのは知っていました。なので混沌にこの近くに駅があるかどうか訪ねたところ「Gare du Midiという駅があるけど歩いて15分位かかる」との事。「地理的に微妙につじつまが合ってないな」と思いました。

この四角い広場の4つの角の内3カ所にカフェがあります。二人で「この中のどれかでもしかしたらランボオとヴェルレーヌは飲んでいたのかもしれないね」なんて話していたら混沌がだんだん興奮してきて「カフェのオーナーに訊いてみよう!」

という訳で最初は歩いて来た北の方向から向かって左奥にあるカフェへ。「ここで二人はベロンベロンになって事件が起きたのかも」と期待に胸膨らませて入ってみると50年代、60年代のスポーツ写真が壁一杯に飾ってあり内装もかなり50’sな天然系のお店。とても文学の香りがする場所には見えません。バーにいるおじさんに混沌が仏語で話しかけると「あの隅に座っている男に訊け」と喧嘩で交通事故かで顔が半分”破損”しているムッシューを指さしました。その人に同じ質問をするとダミ声で「だれだっ、その”ランボオ"って奴は?俺はこの土地に50年以上いる言わば"生き字引"だぜ。この辺の奴らの事なら皆知ってるがそいつらの名は聞いた事がねえ」との返答。どうやら常連の客の事を話していると勘違いしている様子。

次のちょっと40年代っぽいレトロな内装のカフェに行って同じ質問をバーのおばさんにするとやはり狙撃事件はおろか「アルチュール・ランボオ」と「ポール・ヴェルレーヌ」の名前すら聞いた事ないらしいです。

一番高級そうな3つ目のカフェでも従業員及び常連客に訊いてみましたが、やはりだれも「そんな事件聞いた事ない。”ランボオ”って誰?」と異口同音に。

ボードレールが「教養のない市民云々…」となじってこの街を嫌ったのもあながち感情論だけではないかも、と混沌はため息まじりにポツリ。「駅からもあまり近くなさそうだし、もしかしたら場所が違うんぢゃないの?」と僕が言うと「いや、ここで絶対に間違いない筈だ!」と混沌。

最後の角にはそれほど古くなさそうなホテルが建っています。二人で顔を見合わせてから一抹の望みを託してホテルへ。フロントには若い女性が立っています。”Excuse moi, mademoiselle”と混沌が同じ質問をします。仏語を解さない僕は二人のやり取りをじっと見守っておりましたが、二人の表情から判断するに手応えのあった予感。

5分程話してから御礼をしてホテルの表に出た後、混沌が一息ついてから僕の方を見て「やっぱりここだったよ!」このホテル、19世紀当時はカフェだったそうです。1873年7月10日ヴェルレーヌ及びヴェルレーヌの母親、そしてランボオの3人が汽車を待ちながらそのカフェで飲んでいたのですが詩人の二人は程なく泥酔。この前の歩道でヴェルレーヌはランボオに3発発砲し、その内の一発がランボオの左手首に命中したのです。またこのホテルの向かいにある道だけ他の道より不自然に広いのですが、実はそここそかつてMidi駅があった場所で、この噴水は昔の駅前ロータリーだったのです!

その日はその後ずっとこの話題でずっと盛り上がり。夜は混沌のお友達のバンドを観に行き、ライヴの後ミュージシャン達も交えてずっと飲んでいると閉店直前にバーによる「ビール無料」の粋な計らい!当然皆で飲みまくり。

いい感じに酒が回ったハート形の街での最後の夜、締めは”Cheers to Rimbaud and Verlaine!”

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あ = 黒
い = 赤
う = 緑
え = 白
お = 青

母音よ...

「あ / a」の色?

それは異臭と番い飛び回る銀蝿が腰に巻く
毛むくじゃらビロードのコルセットの「黒」...

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●西方見聞録其乃壱拾八: 桐野美耶子の晩夏 最終回 - ハッピーエンド

September 27, 2005

またまた話は前後しますが、倫敦では多くの旧友と旧交を温め、貴重な時間を過ごさせて頂きました。その中でも何から何までお世話になったPUCCYさんにこの場をお借りして改めて御礼を述べさせて頂くと同時に心からのリスペクトを表現した素敵なポートレートも掲載させていただきます。

最後に一つお伝えしたいお話があります。

BBCでドキュメンタリーを制作している友人Gavinとは倫敦滞在中何度か逢ってノッティングヒル・カーニバルやテート・モダンに一緒に行きましたが、彼は今年日本でもTBS系列で放送されたドキュメンタリー'HIROSHIMA'の制作にも携わっております。

このドキュメンタリー、今年原爆投下60周年という事でBBCがかなり綿密に独自の調査をして制作したもの。Gavinは日本での取材時僕の家に泊まっていてこの取材に関して当時から色々話は聞いていたので是非完成品を観たいなと思っておりました。結局倫敦滞在時にDVDで観ましたが凄く良く出来ていたと思います。

この"HIROSHIMA"は英BBC、日TBSを始め亜米利加、加奈陀、仏蘭西、独逸、西班牙、オーストラリア、ニュージーランドで放送されたのですが、このドキュメンタリーの内容に関して唯一米国の放送局からは注文があったそうです;

「もう少しハッピーなエンディングに出来ないだろうか?」

この話を聞いて今回の旅行において金銭上の都合で渡米を断念せざるを得なかったのを心から残念に思いました。

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●西方見聞録其乃壱拾七: Do you believe in miracle (Anata wa kiseki o shinjimasu ka)?

September 26, 2005

尋常ではない血液内アルコール度数を細胞単位でひしひしと感じながら朝5時に起床して前の晩酔っぱらい過ぎて出来なかった荷造りを慌てて済ませAnnaちゃんとお別れをした後、重たいスーツケースを引きずって朝靄の立ちこめる早朝のウィーンの街を通り過ぎ機上の人になった9月13日火曜日の朝。

デフォルトで乗物内睡眠不可な僕ですが、この日は飛び立ってすぐ意識を失い、気付いた時には飛行機は着陸準備に。最初は状況を全く把握していなくて「離陸後何か問題が発生してプラハ辺りに緊急着陸をしようとしているのかっ?!」なんて思いましたが、眼下に広がる巨大な社会主義国家独特の規格統一された無機質な団地群を見て「これは東伯林だ!」

EU国家間のフライトだったのでパスポートコントロールもカスタムも素通りで着陸ロビーへ。予定より若干早めに着いた上、スーツケースが一番最初にベルトコンベアに乗っかって出て来たのでかなり早くお出迎え到着ロビーへ。10分ほど待っていると7年ぶりに再会するロシア人のアーティスト、アレキサンダーが大きな体ともっと大きな笑顔で迎えてくれました。

まず彼のお家へ行って荷物を降ろし朝食をいただいてから生まれて初めて訪れる街、伯林の市内散策へ。アレキサンダー大王はもう既に在伯林20年以上という事で本当に色々な事をよく知っていて事細かに教えてくれました。中でも19世紀からあり現在は半ば廃墟となっているダンスホールは圧巻!今でも使われているらしいのですが内装は完全に放置プレイ。でもそれが故に逆にグッときました。

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アレキサンダーのアパートは所謂アトリエ。床は絵の具だらけで天然ジャクソン・ポロック状態。伯林のアパートらしくかなり大きいのですが何よりも凄いのはシャワー&給湯器無し!お陰で毎朝キッチンにて水(!)で体を拭くというこの世に生を受けて初めてのボヘミアンで美しい経験をさせていただきました。伯林って本当に純粋芸術家の街です。

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翌14日水曜日より世界最大級の音楽見本市、Pop Kommがスタート!小さいながらも楽しい我がレーベル、日本音響制作有限會社もベルリンの2つのレーベルとスタンドを共有しつつ僕が代表で営業活動也。日本から持って来た30枚程のプロモCDは飛ぶ様になくなってしまいかなりの手応え!またこの日は倫敦で逢ったMinistry of SoundのJonasとも再会して「業界って狭いな〜」と実感。因にMinistryは僕が京都でやっているラジヲ番組’Massiveloop ’で色々御世話になっております。

15日のお昼は2年前に日本で出会い凄く仲良くなった伯林のヴィジュアル・クリエイター集団、PFADFINDEREIのオフィスへ足を運びました。皆本当にいい人ばかりなのですが中でも特に仲の良い2メートル10センチはあろうかという長身の友人CODECとおランチ・アンド・ランチ・ビア!

その後彼らのオフィスの上の階にある今をときめくザ・ベルリンなレーベル、BPitch Controlへ。ドアを開けるといきなりかのEllen Allien嬢がソファーに横になって電話をしているのですが、実に絵になっていてカッコいいんです。この世でカッコいい女性にかなうものはないですねぇ。電話が終わってからお話をしましたが僕の事を憶えていてくれていたようで来月来日する時には再会する事を約束しました!(10月14日にageHaで回すらしいので皆様要チェックですよ〜)

そんなこんなで予定よりかなり遅れてPop Kommへ。でもやはり「日本のレーベル」への感心の高さは並大抵ではありません。本当に今欧州大陸、特に独仏&オーストリアにおける日本国のブランド・ステイタスは英米に近い、というか25歳以下のナウでパンチなヤングにとっては下手したらそれ以上ですよ!こんな事日本人として誇りにしなくても良いですが、もう劣等感を抱く必要は無い(っつ〜か最初からなかった)という事実は知っておく価値があると思います、ええ。

Pop Kommの後はアレキサンダー大王宅へ戻って一休みした後、旧伯林の中心地で戦前はカイザーの宮殿があったというAlexander Platzへ。この晩Pop Kommの一環で行われていたドイツのレコード大賞みたいなやつのアフター・パーティーだったのですがPFADFINDEREI Posseの粋な計らいで招待状を頂き、赤いカーペットの上をベンツやジャガーでやってくるタキシードを着たジャーマン・セレブ達に混じって入場という笑っちゃうシチュエーション。旅行中の僕はタキシードはおろかまともなスーツすら持っていませんでしたがレセプションのお姉様がとっても優しい人で何の問題もなく到着3日目にして伯林のセレブな上流社会に侵入成功!東京で逢った友人、HonzaやChrizla達とも再会し、色々お話をしながらタダ酒とタダ飯を頂きつつ右を見ても左を見てもジャーマン・モデル&ポップ・スターだらけのお洒落で儚いヒューマン・ウォッチングを堪能。

このパーティーが佳境に差し掛かった頃、CODECが「次のパーティーに行こうぜ!」と。かくしてモスクワの赤の広場、もしくは北京の天安門広場に匹敵する巨大さのAlexander Platzを霧雨の中横断して巨大な雑居ビルの11階にあるクラブへと移動。なんとここでは2 Many Djsがプレイしていて後半にはMUのリード・シンガー兼モーリス・フルトン夫人であるムツミさんが2 Many Djsと共にライヴ・セッション!アルコール&XXXXでパッキパキになってムツミ嬢のカリスマ的パフォーマンスにノック・アウトされた一夜でした。

翌日はCODECのアパートの大きなリビング・ルームで目覚めましたが、この日の早朝にオーストリアに行く予定だったCODECは既にいなくて「好きな様に使ってくれ」と鍵だけ預かりました。微妙に二日酔いの中、最終日であるPop Kommの会場へと向かいました。プロモ資料は殆ど手元になく、名刺交換に終始しましたがやっぱり感じたのは「自分はあまりビジネスには向いていないな」という事。まだ日本よりは欧州の方が自分的には色々やりやすいのですがそれでも自分の能力の限界を痛感。どなたかインディ・レーベルのプロモーションに御興味のある方は僕に御一報下さい(要英語)。

17日土曜日はアレキサンダー大王と市内観光。ブランデンブルグ門からポツダム広場等々押さえておきたい所は一通りカバー。その後はピーカン空の下、運河の畔のカフェでバイエルン独特のレモンを添えて飲むラガー・ビールを頂きました。そこで偶然逢ったアレキサンダーのお友達と一緒に翌日行われるドイツ総選挙について話しているとトルコ系移民による共産系政党によるデモがやってきて選挙戦ムードも一気に盛り上がり!?

日本でも報道されたかと思いますが、ドイツ人にとって今回は政権交代がかかった極めて重要な選挙なのです。下馬評では右翼保守派でイラク戦争賛成派のCDUがかなり優勢との事で基本的に左翼リベラルな伯林市民はかなり固唾をのんで動向を伺っているように見受けられました。アレキサンダーをはじめ全員が異口同音に「明日はミラクル(奇跡)が必要だね」と半ば絶望気味につぶやきながらよく冷えたビールをグググっと。

この晩一旦アレキサンダー宅に戻って小休止の後、午前1時過ぎにクラビングに出撃!伯林の公共交通機関は金土曜日及び祭日の前日は24時間運行!正にナイト・ライフの為にデザインされたといっても過言ではない街。この晩はMariaというクラブでEllenのDJを観に行きました(Ellenも後日HPの日記でこの日はDJをした後投票しに行ったと書いていました)。外気温10℃以下という過酷な条件下、吹きさらしの河畔で45分もまたされても全然めげずに伯林のクラバーの方々生き急いでおります。これは同時にBPitch Controlの伯林における人気の高さも如実に表していますよね。で問題のEllenのセットは東京で観た時よりもよりハー度でミニ丸でケミ軽な「伯林仕様」。結局この晩は翌朝9時過ぎまでパーレーした後、午後にDangerous Drumsというレーベルのマネージャー、Corinとミーティングがある事を思い出してCODECのアパートにふらふらと行って就寝。

伯林最後の日である18日日曜日、街の中心地にある古いユダヤ人教会シナゴーグの隣にあるカフェにてCorinとミーティング。今度日本音響制作有限會社とジョイント・コンピレーション・アルバムを出すという事でこの辺も含めて色々なお話をしたのですが、皆さん、我々の電子メエルってサーバーに2年以上保管されているって知っていました?アンチ・テロリズムの為だそうでキーワードを入れると過去2年間に世界中でやり取りされた全てのメエルから検索されるとか。

凄い世界になってしまいましたねぇ、何て話で盛り上がった後、アレキサンダー大王のお家へ戻ると彼は総選挙記念パーレーに出かけていて留守だったのですが小さな置き手紙がキッチンに。’Dinner is ready’と書いてありました。素敵なロシア料理を作ってくれていたのです。

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今年還暦を迎えて心臓に問題を抱えているAlexander、彼のアパートは4F(日本流でいう5F)にありエレベーター等は当然ない為長い階段を昇っていくのですが、息が切れ切れで本当に辛そうなんです。それなのにわざわざ外に買い物に行って僕の最後の日の為に料理を作ってくれていて、しかも大丈夫だと何度も言ったのに行きは空港まで迎えに来てくれたのみならず、明日も見送りに来るといってきかないのです!「朝4時に起きなくっちゃならないし、荷物も大してないし空港までの行き方は絶対に分かるから大丈夫だよ」と言っても「いいからもう何も言うな!」でピシャリ。

ロシアの人って本当に友達の為なら何でもやるタイプの人が多いですが、このアレキサンダーはそんなロシア人の中でも本当に情に厚い。それのみならず芸術に対して絶対に正直で如何に生活苦でも魂を売ったりしない人。還暦なのに給湯器すらないアパートに住んで創作を続けています。魂は実に高貴なのです。星の王子さまぢゃありませんが;

「この世で本当に大事なものは目で見えたり手で触れたり出来ないんだ」

西方見聞録其乃六で触れたもう一人の大事な友人、Danielもお母さんに「貴方はもう三十路を過ぎているでしょう。ケンブリッジ大学を出て立派な学歴があるのだし、銀行員とかもっと堅い仕事をそろそろ見つけたらどうなの」と言われた際、ありったけの誠意を込めて「お母さん、僕は銀行員になるより成功しなかったミュージシャンでいる方が遥かに幸せなんだよ」と言っていました。

***

そのうちにアレキサンダーがパーティーから帰ってきました。どうやらシュローダー率いるSPDが下馬評を覆し予想以上に善戦。これでトルコ人移民の事実上の迫害もドイツのイラク派兵も当面回避されそうな気配。どうやら「ミラクル(奇跡)」が起こったみたいです。

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「芸術家にとって安定した生活よりももっと大事なものがある」のは誰でも知っている、或は少なくとも一度は耳にした事のあるありふれたフレーズだと思います。しかし文字通り”生きざま”と呼べるほど自分にとっての真実に痛ましい程忠実に貴重な毎日を生き抜いている人々と出会うのは次元を超越した体験です。僕もそうありたいと常々願っていますし、アレキサンダーにその事を言ったら「遠い日本で同じ様に生きている芸術家が存在しているというのを知っているだけで心の支えになるよ」と言われました。

まずいですね。がむばらねば!

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●西方見聞録其乃壱拾六: ウィーン再訪 - 非日常乃終焉二伴フ痛ミ

September 22, 2005

ホドロフスキー老師との一期一会を果たした運命の晩から一夜明けた翌9月8日木曜日。ベッドの中でだらだらしていたら午前11時にフロントからの電話がかかってきて「もう一晩泊まって行く気なのか?」いえいえとんでもない、もうウィーン行のフライトを取ってしまいましたよ!という訳で慌てて荷造りをしホテルをチェック・アウト。再び運命のカフェに赴き自分の中では夏の仏蘭西の定番ドリンク、パスティスを飲みながらこの短い時間に起こった色々な事に思いを馳せました。その後シャルル・ドゴール空港へ向かい機上の人となり再び降り立ったのが今回の旅で最も心の琴線に触れた街、音楽の都ウィーン!

前回と違い今回はちゃんとウィーン市内の空港だったので電車でWien Mitte(そのものズバリ「ウィーン中央駅」)まで僅か17分という驚異的なアクセスの良さ(っていうか千葉県にある”新東京国際空港”がアクセス悪すぎ&電車代高すぎなのでしょうね)で市内へと到着。もう既に日はとっぷりと暮れていましたが、イルミナシオンの化粧を施した夜のウィーンはそれを一度見てしまったのを後悔する位胸にグッときます。

前回何から何まで御世話になったBabsiを通じて知り合ったお友達のAnnaにWien Mitte駅から連絡をしてたまたまその時開催中のストリート短編映画フェスティヴァルへと直行。開催地は街の反対側だったのですがさすがに2度目のウィーン、Uバーン(地下鉄)&ちんちん電車の連携もサクっと乗りこなして問題なく到着。歩道にドーンと置かれたソファーに座ってワインを飲みながらプロジェクターで白い壁やショーウインドーに投影された短編映画を見て歩くというなかなか奇天烈な企画。この地域で同時多発的に行われていてその場所ごとにドキュメンタリー、アヴァンギャルド、ストーリー物等々に分けて上映されています。観るのは勿論無料。この辺の文化に対する先行投資への気合いの入り方はさすが欧州。こういった芸術家の庇護が実際の芸術に対して本当に良い事なのかどうかは個人的に微妙だなと思うのですが(変な喩えですが肥料を大量に与えて育てた野菜と土の本来の力だけで育てた野菜とでは収穫の量は明らかに前者の方が勝るでしょうが食べてみて実際に美味しいのはどちらなのか、みたいな)その正当性はさておき特にウィーンは街の隅々に文化が感じられます。

その後洒落た今時風のカフェで晩餐をしてAnnaのアパルトマンに行きました。3ベッドルームある中の一室をあてがってもらったのですが、ここがまた凄い所で全体の大きさは軽く120平米はあろうかというアパルトマン。皿洗い機をはじめ3種の神器その他全て最新のものが最初から完備。内装は今時な感じですが、天井はウィーンらしく18世紀ロココ仕様のもの凄い高さ。最寄りの駅から徒歩一分。街の中心地までもドナウ運河沿いをそぞろ歩きで20分弱という驚異的な立地条件。これで家賃、おいくらだと思います?なななんと、怒濤の600ユーロ(約81,695円)也!東京でこの立地&設備だと確実に月25万円以上すると思います。倫敦でかなり似た条件のフラット(とはいっても間取りは同じですがやや小さめで設備もそこまで整っておらず立地ももっと中心地から離れている上、交通の便もかなり劣悪、しかもベースメントときたもんだ)に住んでいる友人Pさんのとこは月に1,000ポンド(約201,294円)、これを3人でシェアしています。Annaのところも3人で楽勝にシェア出来るサイズですからそうなると一人当たりのお家賃は約27,230円!そりゃ一週間に3日もバイトすれば暮らしていける訳ですよね。ホントこの辺はビバ・ヨーロッパ!てな訳でウィーン、芸術家には実に住みやすい街です。

この晩は夜更けまで二人でキッチンにて色々と語り合いました。友達とキッチンで飲みながらあーでもないこーでもないと語り合うって倫敦滞在時以来のデジャウ゛体験。

翌9日はドナウ運河沿いを散歩した後、ウィーンの建築家Hundertwasser(日本語で何て表記したら良いのでしょうか?’フンデルトウ゛ァッサー’?)のデザインしたアパルトマンを見に行きました。可愛い色使いと床すらも平坦ではないという有機的デザイン。執拗に植物を多用したり(これは全てHundertwasserの指定だそうです)本当にオリジナリティも高く、馬鹿の一つ覚えの様に自称「東洋的」、「ZEN的」ミニマリズムに固執する現在の建築&内装デザインに辟易し始めている僕的には心が洗われるような過剰の美学を実践する建物でした。

ここのカフェで僕のウィーンにおける定番ドリンクWeisser Spritzer(詳細は’ウィーン・モン・アムール’を参照)を煽りながらおランチをし、午後はウィーンの目抜き通りをそぞろ歩きしながらポイントポイントでカフェに座ってビールを飲むという実に優雅な時間を過ごさせていただきました。この晩はAnnaのママが来ていたので3人でDVDを観るという実にチルなひとときを過ごして就寝。

10日土曜日はだらだらと公園を散歩したりカフェに立ち寄ってWeisser Spritzerを煽ったりとデカダンな時間を過ごしました。この晩は宮崎駿の「ハウルの動く城」を観に行く予定だったのですがあまりにスラッカーしていて結局間に合わず…..

11日日曜日、念願の「ハウル」を観る。何故ウィーンくんだりまで来て「宮崎駿」なんだと思われる方もいらっしゃるでしょうが答えは単純「安いんです」。大人は6ユーロ50セント(約881円)、学生は3ユーロ50(約474円)ですからビデオレンタルが流行るわけないですよね。で、問題の「ハウル」、亜米利加では酷評されたらしいですが僕は好きでした。Annaも相当気に入ったようで「もう一度絶対に観に行く」と気炎を上げておりました。基本的にはこれまでの宮崎イズムの踏襲だとは思いますが、それでもその尋常ではないイマジネーションと根底にある「愛」は評価されてしかるべきではないかと。

ともあれ映画を観た後その晩遅く前回のウィーンで会い、倫敦滞在中も会ったBabsiのお友達Davidとカフェで再会し3人でウインナー・コーヒーを飲みながら宮崎&大友アニメに関して色々話しました。っつ〜かオーストリアの皆さん本当に日本のアニメや食べ物好きですよ。すこし前までは所謂日本贔屓の欧米人って僕の知る限り皆プチ・オタッキーな人ばかりで微妙に近寄りがたかったのですが昨今は完全にユースカルチャーの一部となったようで全然普通にモードな感じです。ディズニー・アニメ=オールド・スクール、ジャパン・アニメ=ニュー・スクールという図式が成り立っているというか、ディズニーによる子供向けアニメ独裁から日本のアニメがヨーロッパの子供達の魂を救ったみたいに思っている方も少なからずいらっしゃいますね。細かい技術的な事はともかく作品の目指しているところは日本のアニメの方がディズニーより遥かに高尚だとは思います、ええ。

翌9月12日月曜日は朝早く起床してオーストリアの国営ラジオ放送局ORFへと赴きました。凄い偶然なのですが僕が倫敦時代に住んでいた家の大家さんで今でも仲良くしているお友達Theresaの旧友が何と今をときめくオーストリアで最も有名な朝のラジオ番組のDJのDuncan Larkin氏なのです。「オーストリア版七尾藍佳」とでも申しましょうか。そんな訳で本番中のスタジオに招待して頂き、一応全国ネットのFM4リスナーの方々に’Hallo!’と一声。

番組の後Duncanは多忙だったので夕方にIrish Pubで待ち合わせする事にしてORFから程近いSt. Marx Cemeteryへと向かいました。ここにはあの楽聖Mozartが眠っているという音楽を志す者にとっては正に聖地。別に意識した訳ではないのですが今回の旅は墓参りが微妙に多いような気が致します。平日だったせいか巴里のペール・ラシューズとは違い人影も殆どなくまたまたMozartの墓前にて暫く佇んでおりました。ただMozartは極貧の中亡くなり、葬儀は最も安いコースで執り行われています - 即ち棺桶等一切無し、巨大な穴の中に他の多くの亡骸と一緒に放り込まれてその上から体が腐食して土に帰るのを促進する薬品をぶっかけられるという実に野蛮な方法で葬られているのです。ですからこの墓碑も「多分この辺に亡骸が捨てられたのではないか」程度の意味しかないのですよね。

その後Annaのアパルトマンの近くにあるイタリアン・リストランテにてお昼に手打ちパスタを食べたのですがこれが伊太利亜以外で食べたパスタの中でトップ3に入る美味!ケイパーとバジリコをふんだんに使ったトマトベースのソースが手作り卵パスタといい感じに絡まった正に味の芸術品!見た目が結構普通なお店で何の期待もせず空腹を満たす目的だけで入った事もあり超感動せれんでぃぴてぃ!ウィーンに行かれる機会がある方には是非紹介したいお店です。ランチ・ワインも白をグラスで頼んだつもりだったのにカラフェで来て「ま、いっか」。そんなこんなで昼間からほろ酔い状態。

その後Annaと合流してIrish PubにてDuncanと会い石畳の広い歩道で夕日がゆっくりと沈んでいく中ギネスをガンガン飲み、話し上手なDuncanに笑わされっぱなし。翌日はベルリン行きの飛行機に乗る為朝5時に起きなければならないのにDuncanと別れた後もAnnaと一緒にメキシカン・レストランでまたコロナを飲んで結構出来上がり!

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幼少の頃、親戚のお家に泊まりにいったり家族で旅行に行ったりした時の最後の晩、布団の中で必ず感じた悲しみと切なさの混じったちっちゃな胸の痛みがあったのです。楽しかった「非日常」の終焉を惜しむ苦痛とでも申しましょうか。

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この晩酩酊したままベッドに横になってアラームをセットし灯りを消すと窓から洩れてくる街灯の灯りに照らされた高—い天井がぐるぐる回っているのを感じました。遠くの方で酔っぱらいの同志が80’s Popsを歌ってるのが聞こえてきます…..

その時、あの懐かしい胸の痛みを何十年ぶりかに覚えました。

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●西方見聞録其乃壱拾伍: Oscar et Alejandro - オスカアとアレッハンドロ

September 09, 2005

あまりにもアットホームな雰囲気でそれまでのセックス・ドラッグ・アンド・ロケンロールな旅の反動が一気に噴出したのか本当に倫敦滞在中は実に健康な日々を送っており(体重も若干増えたかも)皆様と分かち合う価値があるネタはあまりありません。故に日記は一時停止状態。でもお陰さまで元気です。

にもかかわらず予定より1週間以上長く滞在してしまった第二の故郷、倫敦を去る決意をして巴里行フライトを予約しようとしたら…ななななんと!通常運が良ければ50ポンド(約10,122円)以下で入手出来る格安チケットは完売(希望出発日の2日前では無理もありませんが….皆様も御予約はお早めに)。巴里迄片道なのに100ポンド(約20,244円)以下のチケットはほぼ無くユーロスターも149ポンド(約30,164円)という新幹線より立派なお値段。先月のクレジットカード引き落しが史上最高の17万円を超えてしまった後だけにちょっとまずいなと思いつつ、しかしどうしてもこの日に巴里に行かなければならなかったので(理由は後述)他に方法はないかと色々検索していると....... 倫敦-巴里片道特別価格17ポンド(約3442円)という破格のチケットが見つかったのです。しかしよく見てみるとCOACH(鞄屋さんではありません、長距離バスの意で御座います)で所要時間は怒濤の9時間!飛行機なら1時間弱の距離なのに….と思いつつ背に腹は代えられぬと断腸の思い(?)で!

"ポチッとな"

かくして当日は朝の5時に起床して長距離バスで巴里への陰鬱な旅。しかし前日散々ブルーだったからかいざとなってみると思った程辛くはなかったです。「気分」って結構主観的なものですよね〜♪。ドーバー海峡は船かと思いきやなんと巨大な貨物列車にバスごと乗せられてユーロ・トンネル経由。バスが貨物列車に乗って行く様はプチ戦隊もの状態。「合体」という言葉がぴったり!

かくしてほぼ2ヶ月ぶりに戻って来た花の都巴里。一日目は倫敦時代の友人Chrisとナウでヤングなパリジャンが集う街、バスティーユ地区のそこそこお洒落なカフェにてサクッとお食事(しかし気がつけばワイン2本も空けてるし......)。翌朝は早いので適当な時間で切り上げてホテルに戻りました。

翌9月7日水曜日。慣れない早起きしてまでやりたい「とある事」というのが今回僕が巴里に立ち寄った最大の理由なのです。それは西方見聞録其乃七で著述した友人Tootsが教えてくれた僕がフェリーニより小津よりキューブリックより偏愛している異端映像の魔術師、アレッハンドロ・ホドロフスキー老師がやっているという噂のタロット占いに行く事。ホドロフスキー老師、毎週水曜日に巴里のとあるカフェで一回につき20人までタロット占いをしてくださるのです。お金は一切頂かないらしく条件はただ一つ、「一ヶ月後にホドロフスキーに手紙を出す事」。この話だけで彼の人となりが伝わって来て涙が込み上げてきますが、とにかく予約するには朝7時にこのカフェにいって整理券を貰わなければならないという事で用意周到にくだんのカフェから徒歩1分(ていうか窓から見えました)のところのホテルの部屋までとって目覚ましも到着早々セット!ところが「どんな質問をしようかな」「なんて挨拶しようかな」なんて色々考えていたらあまりにもワクワクし過ぎて全然眠れなくなってしまいました.........

明け方ややうとうとして目覚ましの鳴る5分前にはキチンと起床。さわやかに目が覚めて髭剃ってシャワーを浴びてからくだんのカフェに足を運んでみると!

タロットのタの字も感じられない雰囲気。客もまばらでギャルソンが仕事に勤しんでいるだけなのです。それらしき事が壁に書いてある訳でもなく、なんか「あの〜ここでタロット占いなんてやっていますか?」なんて聞くだけで変人扱いされそうな空気。

「結局昨日の夜は訊きたい質問も考えられなかったしぃ〜、アレッハンドロは今マリリン・マンソン主演の映画を撮影中で巴里にはいない可能性が高いってTootsも言ってたしぃ〜、縁がなかったのかな」と思いカフェ・オーレとクロワッサンだけ食べて(美味)一応気になるのでもう一回だけ夜ちょっと顔出してみる事にしてそのカフェを後にしました。

因に後で気付いたのですが仏蘭西の国境を超えた時点で腕時計の時間は変えたのに(英国は他の西ヨーロッパ諸国より一時間時差があるのです。へそ曲がりの英国人、憎みきれないろくでなし〜)、目覚まし時計は英国時間のままだったので、実は知らずに一時間遅刻していたのです!南無三….

別に巴里に観光で来た訳でもなく、今回は時間がないので友人にもまともに連絡もとっていなかったので昼間は一人でだらだらと巴里市内を散歩。そうこうしているうちに気がつくと巴里最大の霊界分譲住宅、ペール・ラシューズ墓地の前におりました。

ここはドアーズの故ジム・モリソンやショパンをはじめ多くの著名人が眠る墓地。その中には僕が最も愛している19世紀耽美主義の作家で或る意味 "人類史上最初のメディア・スタア" であろうオスカア・ワイルドもいるのです。

僕が未だにロンゲ党なのも、スタア性のある人が無条件に好きなのも、パラドックス・フェチなのも実はオスカア・ワイルドの影響であるという位本当に大好きな人なんです。彼の墓参りには去る1999年に一度来ています。霧雨が降る肌寒い秋の巴里、オスカアが生前最も愛していたという白い百合の花たばをもって広いペール・ラシューズの中を殆ど迷わずに墓前に行きました。

この日は前回とはうって変わって9月だというのに気温は30度以上。文字通りピーカン空の下、またまた不思議と迷わずあっという間に"思ひ出ほろほろ"なスピリチュアル・スポットに6年ぶりにたどり着きました。今回オスカアの墓石には無数のピンクのリップスティックのキスマークによるファンシイなデコレーションが!「男色家の彼が喜ぶのか?でも愛は伝わるよね」なんて思いつつお墓の前に腰を下ろしました。

木漏れ日すらも肌に針のやふに突き刺す炎天下、バゲットとチーズを食べながらビールを飲んでそれはそれは長い長い長い長い長い間オスカア・ワイルドの墓前に座っていました。ほんと、「偏愛」、バカですよね。でもいいんです。これが「至福」なのですから。ほんと、どうしようもない位好きなんですよ、ええ。

時々観光客が来ては写真を撮って去って行く、そんな状況をアルコールがいい感じに回っているうつろな目で見守りながら生温くなったビア酒を煽っていると管理人と思しきおじさんがなにやら語りかけてきました。どうやら墓地内ではアルコールを飲んではいけないと言っている様なので’Okay, okay.’と言ってその場を立ち去る事に。

以降巨大なペール・ラシューズ墓地をさまよう事数時間 - その間偶然見かけたのがサラ・ベルナール(←この人も凄く惹かれます。カッコいい女性ですよね)、エディット・ピアフ、そしてイヴ・モンタンのお墓。またここには第二次世界大戦中強制収容所に連れて行かれた多くのユダヤ人の鎮魂碑も建立されていたり(写真2参照)、1871年に世界史上最初の純粋共産政体、パリ・コミューンの勇士達が命ある限り抵抗を続け、最後にこのペール・ラシューズ墓地に逃げ込み一番奥に或る乗り越える事は不可能な壁の所迄追い詰められて全員射殺されたという場所があります。この壁は現在世界中の共産主義者/社会主義者/理想主義者が花を捧げにやってくる巡礼の地と化しており、この日も多くの花が添えられておりました。

しかし前回と同じく結局ジム・モリソンのお墓は見つけられずじまい。

本当に「メーク・ドラマ」なエピソード満載で、墓地というよりもむしろ博物館、もしくは「一冊の本」といっても差し支えないであろうここペール・ラシューズ墓地を後にしたのは午後6時即ち閉園ギリギリの時間。そのままホテルに一旦戻るとなんとエレベーター故障中!六階(注: とは言ってもこちらでは一階はGrand Floorなので日本流に言うと七階)の部屋迄螺旋階段を歩いて上がって行きました。一日中歩いた後だったので膝が言う事を聞いてくれずしんどかったです。それでもシャワーをサクッと浴び、ちょっとチルチルしてまたくだんのカフェに足をしげしげと足を運ぶのでした。

カフェに着くとどうやら奥の方に人集りが!「もしや」と思い店内へ….

横に長くくっつけられたテーブルの奥の真ん中に見た事の或るロマンス・グレーの髪が!そのすぐ近くにあるバー・カウンターに半身でよりかかり赤ワインをオーダーし凝視してみると!

胸の奥からレッドホットな「何か」が込み上げてきました。2005年9月現在健在の芸術家の中で一番、本当に世界で一番逢ってみたかった人がそこにいるのです!南米チリ生まれのロシア系ユダヤ人。旧大陸&新大陸を点々とした後(1960年に仏蘭西のパントマイム師、マルセル・マルソーと一緒に来日している)、60年代に「エル・トポ」という名作を世に出しました。チャクラが蛤のやふに閉じきっている批評家には酷評されながらもジョン・レノンを始め理解ある一部の人々からはこの作品狂信的に支持されたのです。にもかかわらず絶対に芸術をないがしろにしないその姿勢が結局映像作家としての彼のキャリアのとって致命的なダメージとなり映画業界に不当としか言いようのない扱いを受けた挙句、今では巴里で隠遁生活を送っている - そんな波乱の人生を歩み、世界中を難破船のようにたゆたえてきたアレッハンドロ・ホドロフスキー老師がいま僕の眼前に!

芸術作品において「完成度」の追求がどれほど無意味な事か、いや、ちょっと違いますね。本来作品の中で目指すべきは「手法的完成度」ではなく「精神的完成度」であり、その為にはルールなどというイデア自体お話にならないぐらいナンセンスなものだという事を僕に作品を通じて悟らせてくれた人なのです。

長テーブルの真ん中に鎮座して終始にこやかに世界中より僕の様に彼を訪ねてはるばるやってきた人達にタロット・カードを通じてお導きの福音を宣っているホドロフスキー老師のその姿は正に「最後の晩餐」におけるイエス・キリストを彷彿させました。本当に「後光」が見えましたよ。

タロット占いの間、ずっとカウンターで様子を見ていました。途中からやってきたChrisは「日本からはるばる来たんだって言ってやってもらえば」と言ってましたが僕は「いや、今回はいいんだ」といって淡々とワインを飲み続けました。仕事柄所謂有名人に逢う機会は多い方だと思うのですが、何を隠そう僕はこういうセレブな方々に話しかけたりサインをもらったり一緒に写真を撮ってもらうという事が本当に苦手というかあまり好きではないのです。同じ人間のレベルでコミュニケートしていないような気がするんですよね、跪いているというか。だからどんな人にも取材とかで逢うよりパブとかバーでとかパーティーで偶然逢って自然に話しかけるっていうのが僕的には最も理想的な平等な地平線に立った人間同士のコミュニケーションのスタイルなのです。

しかしタロット占いを終えてホドロフスキー老師が立ち上がりその場を去ろうとした瞬間、僕の中の何かが「今彼に話しかけなかったら一生後悔する!」と囁いたのです。そうなると考えるより先に足が動いていましたね〜;

Ken: Excuse me. Do you mind awfully if I had a photograph taken with you?
Jodo: (smiles) Okay, okay.

なんで「写真」だったのかは自分にも判りませんがとりあえずミーハーなツーショット撮影には成功しました。少し急いでいる様だったので本当に一言二言言葉を交わして終わったこの刹那な出会い....

昭和80年9月7日木曜日は僕がこよなく愛する二人の芸術家 - オスカアとアレッハンドロ - と霊界&現世にて交流出来た記念すべき一日となりました。

明日8日金曜日は今回の旅で恋に落ちた街、音楽の都ウィーン再訪也!

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●西方見聞録其乃壱拾四: 桐野美耶子の晩夏 第二回 - 'What became of the likely lad?'

September 03, 2005

今回は英語&日本語のバイリンガルでお送りします。
(役 彩斗氏による日本語訳が後半にあります)

I've got one funny sweet little tale that I'd like to share with you.

A couple of days ago I went to an Irish pub near King's Cross called 'Filthy MacNasty' with my friend who used to frequent the premises in question. Although from the outside it does look like any old dodgy Irish pub one finds at any old corner of the globe, it was a special place for we had a rather good reason, even if the reason was a little bit on the touristy/trendy side, to go there.

This pub used be run by an ex-member of an Irish band called Pogues - they were quite big in the 80's - and as such, a lot of indie rock bands used to play there every weekend and naturally gravitated many an unsigned musician. One of the geezars whom she used to see a lot at Filthy MacNasty was this lad called Pete. Pete was also a musician; very skinny and tall with big brown eyes. A very nice boy he was, a likely lad one might say, and she used to talk to him a lot especially when they were both sauced which was, of course, their usual state but him in particular. They often bump into each other at the local laundrette as well.

When the guy from Pogues decided to sell the business altogether and the management changed about 3, 4 years ago, a lot of the regulars stopped going there and the cool atmosphere was to be found there no longer. Many a moon had passed by and her visit to the Filthy MacNasty eventually became exceedingly erratic. The boy also ceased coming to the laundrette for some mysterious reasons.

Then we were sitting at a country pub just outside London quite literally a few days ago, the person next to us was reading the Sun (the most popular gutter paper in the UK owned by that despicable Aussie). My friend had a quick glance at the paper and therein she took a certain notice of one of the photos. She cried;
'I know this boy!'
The guy and I both started at her voice.
It turned out it was that nice boy named Pete being photographed with Kate Moss.
'Is he famous?'
She asked both of us innocently. We looked at each other and finally I uttered;
'Which planet have you been living on in the past couple of years?'.

That's why we had to go to Filthy MacNasty, have a pint of Guinness and toast to the magic and mysteries of life!

So I hope the magic and mysteries of your life are finding you well!

Ken

ps. The attached is a self-portrait of moi taken in the bogs of Filthy MacNasty. As you can see, my religious faith is never absent even in the state of total drunkenness (or perhaps even more present, I don't know)

日本語訳 by 役 彩斗

私には、あなたと共有したいと思う1個のおかしい甘い物語がほとんどありません。

2、3日前に、私は以前はよく問題の構内によく行っていた友人と共に'汚らわしいMacNasty'と呼ばれるキングのCrossの近くのアイリッシュ・パブに行きました。 外部から似ていますが、私たちにはかなり十分な理由があって、どんな古い巧妙なアイリッシュ・パブ1も、どんな古い角でも地球では、それが特別な場所であったのがわかります、理由がそこに行くためにほんの少し少しtouristy/トレンディーであったとしても。

アイルランドのバンドの元のメンバーによって呼ばれた走行がポーグであったなら使用されるこのパブ--彼らは80年代でかなり大きく、そういうものとして、多くの独立プロロックバンドがいつも週末、自然に多く引き寄せられるプレーに無記名のミュージシャンを使用しました。 彼女が以前はFilthy MacNastyでよく大いに見ていたgeezarsの1つはピートと呼ばれるこの若者でした。 また、ピートはミュージシャンでした; 大きい茶色の目で非常に痩せぎすであって、高いです。 彼が非常に親切な少年であった、ありそうな若者1は言うかもしれなくて、特にそれらがともに味付けされたとき、彼女は以前は彼とよく大いに話していました(もちろん特にそれらの普通の状態にもかかわらず、彼でした)。 彼らはまた、地方のlaundretteでしばしば互いにばったり出会います。

ポーグからの奴が、全体でビジネスを販売すると決めて、管理が4年前に3時頃に変化したとき、そこに行くのが止められた多くのレギュラーとクールな雰囲気はもうそこで見つけられることになっていませんでした。 多くの1つの月が通り過ぎました、そして、Filthy MacNastyへの彼女の訪問は結局、きわめて不安定になりました。 また、少年は、いくつかの神秘的な理由でlaundretteに来るのをやめました。

次に、私たちは全く文字通り数日前にロンドンのすぐ外で国のパブに座っていました、と私たちの横の人が太陽(その卑劣なオーストラリア人によって所有されていたイギリスで最もポピュラーな溝の紙)を読んでいました。 私の友人は紙に軽い一瞥を持っていました、そして、そこに、彼女は写真の1つのある注意を払いました。 彼女は泣きました;
'私はこの少年を知っています!'
奴と私は彼女の声でともに始めました。
それがケイト・モスと共に写真を撮られているピートというその親切な少年であることは判明しました。
'彼は有名ですか?'
彼女は無邪気に両方を私たちに尋ねました。 私たちは、互いと最終的に私で発声されているように見えました;
'どの惑星に、あなたが過去2、3年間で生きるのであるので、いますか?'

それは私たちがFilthy MacNastyに行って、ギネスの1パイントを持って、人生の魔法と神秘に乾杯しなければならなかった理由です!

したがって、あなたの人生の魔法と神秘が上手にあなたを見つけていることを願っています!

ケン

ps。 付属はFilthy MacNastyの沼沢地で取られたmoiの自画像です。 お分かりのように、私の宗教信仰は総酩酊の状態でさえ決して欠けていません。(恐らくさらに存在していて、私は知りません)